文化認識論

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反逆のテクノロジー(その10) 3つの絶望

フランスの哲学者であるミシェル・フーコーは、その生涯を通じて、少なくとも3つの絶望に直面したのだと思います。本稿では、そのことについて書いてみたいと思います。

 

1.「人間の終焉」という絶望

 

最初に挙げたいのは、「言葉と物」のラストを飾る「人間の終焉」という予言です。近い将来、人間という存在が終焉を迎えるというのですから、これは絶望だと言っていい。では、フーコーは何故、そう言ったのか。文献2は、次のように解説しています。

 

- (前略) 現代文学が投げかける作品空間は、明らかに言語が人間の手の内から逃れ去り、逆に人間を規定する方向性を持つ。そこでは、言語自体の存在がますますあらわになり、人々は人間に関する根拠づけを放棄し始めているのではないだろうか。(中略)フーコーによるなら、西欧文明において、かつて人間の実存と言語の存在は、一度たりとも両立したことはないという。それゆえ、言語の存在がせり出しつつある今日、新たな思考の地殻変動が生じているのではなかろうか。もし、そうであるとするならば、と慎重な姿勢を取りながらも、フーコーは新たなるエピステーメーの到来を予感する。そのエピステーメーとは、言語の存在の前で人間の能動性が奪われ、口をつぐみ、消えてゆく時代である。フーコーにおける「人間の終焉」という表現は、この新たなエピステーメーの到来を表わしている。-

 

現代文学だとか「言葉」と言われても、ちょっとピンと来ないのではないでしょうか。但し、ここは思い出して欲しいのです。フーコーは人間存在よりも上位にあり、人間を規定するような事柄をシステム、権力、エピステーメー、言葉などの用語によって表現しています。これらは、構造主義者たちが主張する「構造」という用語と、ほぼ同じ意味ではないでしょうか。すると、ここで言われている「言葉」という用語を、例えば「システム」という用語に置き換えてみてはどうでしょうか。

 

- システムの前で人間の能動性が奪われ、口をつぐみ、消えてゆく時代である。-

 

こう読み替えてみると、意味が見えてくるのではないでしょうか。そして、21世紀の日本の状況を考えますと、それはフーコーが50年以上も前に予言した通り、人間存在が消えかけている。私には、そう思えてなりません。

 

2.「侵害としての認識」という絶望

 

哲学の本流が認識論にあるとして、フーコーの「言葉と物」の本質もそこにある。このブログで先に述べました「連続性原理」、「非連続性」、「他者」、「エピステーメー」などの概念も、認識論の範囲内にあるのだろうと思います。そして、フーコーは人間の認識能力に絶望していると思うのです。文献5から引用させていただきます。「真理と裁判形態」に関する1973年の講演録から。

 

- 認識と認識が対象とすべきものの間には、自然的連続性といった関係はなにもありえない。そこには暴力、支配、権力と力、侵害といった関係しかありえない。認識は、認識すべきものに対する侵害(violation)でしかありえないのだ。それは知覚でも再認でもないし、またあれらこれらといったものの同一化でもない。-

 

1970年以降、フーコーは権力やシステムについての検討を重ねており、上記の引用箇所は、その流れに沿ったものです。例えば、裁判においては、冤罪という問題が生じる。このような場合には、上記の指摘がそのまま当てはまります。しかしフーコーは、そのように限定された場合を指して言っているのではない。人間の認識そのものの暴力性について述べているのです。これは人間存在に対する率直な否定だと思われます。

 

3.「哲学の終焉」という絶望

 

フーコーの有名な言葉の1つとして、次のものがあります。性の歴史II-快楽の活用の序文から。(文献5)

 

- 今日、哲学とは -私が言いたいのは哲学の活動ということであるが- いったい何だろうか? 哲学が思考の思考自身に対する批判的な作業ではないのだとしたら。そしてまた、人がすでに知っていることを正当化するのではなく、別なように考えることがどのように、そしてどこまで可能であるのか、このことを知ろうと企てることに、哲学が存するのでないのだとしたら。-

 

フーコーは、哲学の衰退について嘆いていた。(文献8)既に哲学には、ほとんど誰も関心を示さず、それは大学の中でしか、語られることがなくなっていた。そして哲学を教える教授たちでさえ、哲学の歴史や過去の哲学者の思想については教えるものの、自分たちの頭では哲学を考えなくなっている。そのことを踏まえて、もう一度、上記の引用箇所を読んでいただけないだろうか。そこには、フーコーの深い悲しみが読み取れる。

 

1984年6月25日、フーコーはパリのサルペトリエール病院で息を引き取った。(文献2)訃報を知った人々が集まり、病院の中庭で、儀式が執り行われた。その際、かつての盟友ドゥルーズが、上記の文章を読み上げたそうです。

 

(参考文献)

文献1: FOR BEGINNERS フーコー/Cホロックス/白仁高志訳/現代書館/1998

文献2: フーコー今村仁司・栗原仁/清水書院/1999

文献3: 言葉と物/ミシェル・フーコー渡辺一民佐々木明訳/新潮社/1974

文献4: ミシェル・フーコー、経験としての哲学/阿部崇/法政大学出版局/2017

文献5: ミシェル・フーコーの思想的軌跡/中川久嗣/東海大学出版会/2013

文献6: 図説・標準 哲学史/貫 成人/新書館/2008

文献7: 哲学中辞典/尾崎周二 他/知泉書館/2016

文献8: フーコー・コレクション1 狂気・理性/ミシェル・フーコーちくま学芸文庫/2006