文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その14) 労働とベーシックインカム

前回の原稿で、人間はその初期設定の段階で狂気を孕んでいる、ということを述べました。このように考えますと、肩の荷が降りたような、少し楽な気持ちになってきます。これまでの私は、自民党はけしからん、モリ・カケ・サクラはどうなっているんだ、とか、日本の司法に正義はないのか、とか、新自由主義はけしから、と思ってカリカリしていた訳です。そのような見方に変化はありませんが、しかし所詮、人間は不完全なもので、その不完全な人間が作り出す世の中が、狂っていないはずがない。学者の世界や教育の世界だって、例外ではない。そう思うと、冷静になれる。かと言って、それは諦めるということではありません。クールに、静かに、考える。その方が、思考能力が高まるような気もします。

 

さて、ミシェル・フーコーはその著作「言葉と物」の中で、人間は3つの事柄に規制されていると述べました。

 

- 人間は労働と生命と言語に支配され、その具体的実存は、それらのもののうちにみずからの諸決定を見出している。- (P.333)

 

確かに人間には寿命があって、それが尽きれば死ぬ運命なので、「生命」に支配されているということは納得できます。また、人間は「言語」によって認識し、思考するので、これに支配されているということも理解できます。ちなみに、言語心理学という学問があって、こちらではチンパンジー、カラス、イヌなど、言語を持たない動物も思考するので、人間も言語によって思考するとは言えない、という学説が主流になっているそうです。しかし、チンパンジーなどの動物は、経験的に学習することはあっても、直線を発見したり、文字を発明したりすることはありません。思考の複雑さの程度というは本質的な相違をもたらしているのであって、人間だけが持つ思考能力は言語に依存していると思います。

 

さて、問題は「労働」です。人間は本当に、「労働」に支配されているのでしょうか。フーコーが「言葉と物」を出版したのは、1966年です。それから54年の歳月が流れています。その間に、情報技術をはじめ、多くのテクノロジーが発展したことは言うまでもありません。

 

思えば、現代の社会システムや権力構造というのは、この「人間は働くべきだ」というテーゼ(以下、便宜上「勤労主義」という)を前提にしている。仮に、このテーゼをひっくり返すことができれば、それは人類がかつて経験したことのような、大きなパラダイムシフトが引き起こされるに違いない。そしてこの課題は、コロナ禍が引き起こすであろう目前に迫った世界恐慌との関連で、検討されるべきなのです。

 

そもそも、勤労主義というのはどこから来ているのか。日本でも「働かざる者、食うべからず」という言葉があります。これをWikipediaで調べてみますと、その起源は新約聖書にあると書いてある。なるほど、新約聖書にそう書いてあるので、聖書を重んじるプロテスタントが勤労主義を支持し、それが資本主義を支えることとなった。そういう経緯があるのではないでしょうか。

 

もう一つは、日本国憲法の第27条1項です。

 

- すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。-

 

ここにも勤労主義が定められている訳ですが、何故、このような条文になっているかと言うと、当時、マルクス主義者である憲法学者が主張した、という説があります。(Wikipediaで「勤労の義務」を調べると説明の詳細を読むことができます。)レーニンも「働かざる者、食うべからず」と述べたことがあるらしい。つまり、社会主義共産主義は、働ける者は皆働き、その成果を国民全員で平等に分配しようという考え方なので、必然的に勤労主義に至る訳です。

 

勤労主義が、戦前の軍事政権が唱えた「富国強兵」と合致するのは言うまでもありません。現代社会を支配している国際金融資本の場合は、どうでしょうか。彼らの手口というのは、大衆を貧しくさせておいて、労働によって拘束する。そういう手法を採っているように思います。してみると、キリスト教プロテスタント)、マルクス主義軍国主義グローバリズムなど、様々な政治勢力が共通して勤労主義を支持してきたことが分かります。これらの勢力を説得して、若しくは打ち勝って、ベーシックインカム(以下“BI”)を導入するのは、並大抵のことではなさそうです。

 

そもそも、人間は本当に働かなければならないのか。この点、私はそうではないと思うのです。狩猟・採集を生業としていた古代人は、現代人ほどは働いていなかった。中世の貴族もほとんど働かなかったし、宗教の聖職者たちだって、経済的な生産活動には従事していない。むしろ、働かない人たちこそが文化や芸術を支えてきたのではないか。

 

では、導入するとすればどのようなBIが適切なのか。それは、国民が現代社会で生きていく上で必要最小限の金額に若干の余裕をもたせた金額を、全国民に給付するということだと思います。仮にその金額は月額15万円としておきましょう。贅沢はできない。そこで、贅沢をしたい人は、働く。ただ、働くか否かという判断は、個々人が自由に決める。生活保護は廃止。国民年金に加入している人達の平均的な年金受給額は月額6万円程度なので、差額の9万円を支給する。その他の年金制度は、何十年かの時間をかけて、段階的に廃止していく。ざっくりと言いますと、そのようなBIがいいのではないでしょうか。

 

そもそもBIは可能なのか、という問題がありますが、YouTubeで複数の動画を視聴しますと、どうやらこれは可能らしい。衣食住という観点で検討してみても、既に、各分野での機械化は進み、生産性は各段に向上している。何も、現在のように多くの人々がシャカリキになって朝から晩まで働かなくとも、国民の衣食住を維持することは十分可能なのです。今後、人口知能などの技術が進歩した場合、この傾向は更に強まります。

 

ただ、BIの導入は天と地がひっくり返るような変化ですので、段階を追って進める必要があります。まず、定額給付金などのコロナ対策を継続する。そして、消費税の廃止。MMTに基づく積極財政への転換。そしてBIへと進める。そういう道筋が見えます。

 

BIを導入する上で最大の障壁は何かと言うと、それは前述の勤労主義者たちをどう説得していくか、ということではないでしょうか。彼らは一様に、変化を望んでいない。既得権にしがみつこうとする人も少なくないでしょう。そして、そもそも自由を望んでいない人たちだって、少なくはない。背広を着て、ネクタイを締めて、働く以外にすることがない。いざ、自由になってみると、何をしていいか分からない。定年退職をして、途端に老け込むお父さんというのは、日本全国にいる。彼らには趣味がない。遊びを知らないんです。今の日本には、81才にもなって自民党の幹事長として働いているおじいさんだっている。陰気な顔をした総理は、71才だったでしょうか。こういう人たちというのは、引退しても何をすればよいのか分かっていないに違いない。日本には欧米のようにバカンスを楽しむという習慣もない。

 

長い目で見ますと、それらの仕事人間に対し、仕事以外にも楽しいことは沢山あるんだよ、ということを教える必要があるように思います。北風ではなく、太陽のように。そして、特にやりたいこともないのに、いい年をして権力にしがみついていることは恥ずかしいことなんだ、という価値観を醸成する必要があるのではないでしょうか。働くだけが人生の目的ではない。人生にはもっと楽しいことが沢山ある。もっと大切なことだってある。それを証明する力はどこにあるか。それは、文化の中にある。文化には、そういう力があると思うのです。