私が敬愛するブルース・ギタリストの一人に、ジョニー・ウィンターという人がいる。彼はアルビノで、視力もほとんどなかった。アルビノというのは色素欠乏症のことで、肌は透き通るように白い。髪から眉から、とにかく全身が白いのだ。そんなジョニーが愛したブルースは、黒人の音楽である。人種差別の激しかった1960年代のアメリカで、ジョニーは黒人ばかりが集まるクラブで、ブルースを演奏していた。ある日、ジョニーは黒人からこう言われる。
「ここは黒人のミュージシャンが演奏する場所だ。白人は出て行け」
するとジョニーは、次のように答えた。
「君たち黒人は肌の色が黒すぎるから、差別を受けているのだろう。俺は肌の色が白すぎるから、差別を受けている。だから、俺にもブルースを演奏する権利がある」
若き日の私は、この話にシビレタものだ。
ところで、今日においてもアメリカでは白人警官による黒人への虐待が続いている。そこで、黒人の命も他の人種と同様に大切なんだ、と訴えるBLM(Black Lives Matter)という運動が起こっている。言うまでもなく、マジョリティとしての白人が、マイノリティの黒人を迫害している訳だ。ところが、アフリカのザンビアでは、正反対のことが起こっている。
ザンビアにおけるマジョリティは黒人だが、そこに2万5000人のアルビノがいる。そればかりか、ザンビアではアルビノの肉体には呪術的な力があると信じられており、アルビノの身体の一部や死体が高額で取引される。殺されたり、生きたまま腕を切断されたりするアルビノの人々が、後を絶たない。21世紀の日本に生きる私たちからしてみれば、ちょっと信じられない話だろう。人間の肉体にそんな呪術的な力があるはずはない。
呪術というのは人間の、特に古代人の直観に基づくものである。そして、そこに想像力が加味され、宗教へと至る。そのように考えると、ザンビアの悲劇が普遍性を持っていることに気づく。例えば、中世のヨーロッパで行われた魔女狩りなども、この文脈で考えることができる。15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ全土において、4万人~6万人が処刑されたのだ。まったくもって馬鹿げた話で、そもそも人間が箒に乗って空を飛べるはずがない。言うまでもなく、魔女は人間の想像力の産物に過ぎない。
そんな馬鹿げた話は他国に限ったことであって、我が日本に限ってそんなことはない、と考えたいところだが、そうは問屋が卸さないのである。かつて日本においては家を建てる際、神に対する生贄として子供を生き埋めにしたという話がある。その子供の霊が「座敷わらし」として出現するという説もある。「座敷わらし」を生み出したのも、想像力に他ならない。
いずれにせよ、想像力が生み出す無数の悲劇を経験した後、それらに対するアンチテーゼとして、ヨーロッパで近代理性というものが生まれたのだろう。迷信を信じるのは止めようと考えた人間は、科学を発明する。論理的思考と言っても良い。例えば、「あそこの家の奥さんが、箒に乗って空を飛んでいるところを見た」という噂が立つ。しかし、そう述べる人を1人ずつ詰問して行けば、それが根も葉もない噂話に過ぎないことが判明する。自然科学の世界で成果が生まれたこともあって、人文科学が発達し始める。それは本当に、事実なのか。そのことは、証明できるのか。そういうマインドが普及するにつれ、想像力は悪いものだ、という風潮が生まれたに違いない。
しかし、本当にそうだろうか? 想像力とは、悪いものなのか?
ここまで考えると、以前このブログで取り上げたチャールズ・サンダース・パース(1839-1914)が主張したアブダクションのことを思い出す。パースは、アメリカの記号学者で、論理学についても研究していた。そこで、従来の帰納や演繹に加え、アブダクションという論理的思考が成立すると主張した。アブダクションとは、簡単に述べると次の3つのステップによる思考方法だと言える。
1)驚くべき事実を発見する。
2)その驚くべき事実を説明できる仮説を立てる。
3)その仮説によって、驚くべき事実を説明できる場合、その仮説は正しいことになる。
まず、「1」については、「疑問を持つ」と言い換えても良いだろう。疑問を持つところから、アブダクションは作動するのだ。そして、「2」の仮説については、想像力に依っていると言える。あれこれと想像することによって、仮説が生まれる。つまり、想像力なくして、このアブダクションは成立しないのだ。
但し、このアブダクションは不完全な論理だと言わざるを得ない。何故なら、1つの「驚くべき事実」に対し、複数の仮説が成立する可能性があるからだ。例えば、ビートルズの音楽はとても素晴らしく、とても感動する。これは驚くべき事実だ。そこで、何故、ビートルズの音楽がそのように素晴らしいのか、仮説を立ててみる。ある人は、ジョン・レノンが天才だったからだと考える。しかし、別の人はポール・マッカートニーが天才だったからだ、と考えるかも知れない。そして、この2つ仮説はどちらも正しい。つまり、どちらの仮説も部分的には正しいが、総合的に見た場合、誤っている。このような誤謬を引き起こす可能性があるので、アブダクションは不完全なのだ。
しかし、現実世界に目を転じた場合、想像力を含むアブダクションなくして私たちが認識できることは、とても少ない。例えば、明日の天気であれば、ある程度、予想することができる。しかし、例えばあなたが恋愛をしているとして、その恋がどうなるか、そのことを言い当てることのできる論理など、どこにも存在しない。明日の株価がどうなるか、それすら人間には分からない。
ちなみに、私がかつてこのブログで検討した「認識の6段階」という概念モデルがあるが、これを要約すると人間の認識というのは、まず、知識があって、それが想像力を経て、論理的思考に至るというものだった。ここでも、「想像力」は不可欠の要素となっている。
結局、人間の想像力というのは、誤りを犯しやすくとても頼りないものであるが、それなくして人間の思考は成り立たない、という関係にあるのではないか。想像力を駆使し過ぎると、アルビノの人々を殺戮したり、魔女狩りなどという馬鹿げたことをしたりしてしまう。しかし、想像力を用いず人間が思考できる範囲というのは、せいぜい実験によって事実を確認できる自然科学の世界に限定されるのではないか。
この点、ミシェル・フーコーの「言葉と物」の中に、次の一節がある。
- 想像力は人間のなかで、霊魂と肉体との縫い目にある。じじつ、デカルト、マルブランシュ、スピノザは、想像力を、まさにこのような位置において、誤謬の場であると同時に数学的真理にさえ到達する能力として分析した。(P.95)-
想像力とは、人間が決して飼い慣らすことのできない怪物なのだ。
ちなみに現代の日本社会においては、想像力が不足しているのではないか。例えば、自分のことを一方的に話し続ける人というのは、少なくない。自分の経験を語るという行為において、想像力は要求されない。他方、誰かに質問をする場合には、その相手の経験や興味などを想像する能力が求められる。そもそも、何に対しても疑問を持たない人だって、少なくはない。疑問を持たなければ、思考の回路は停止したままだというのに。