文化認識論

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反逆のテクノロジー(その17) 知への意志

表題の「知への意志」とは、ミシェル・フーコーの連作、「性の歴史」第1巻のタイトルである。「性の歴史」は当初、全5巻となることが予定されていたが、その3巻までが出版された時点で、フーコーは他界した。タイトルを並べてみよう。

 

性の歴史 I   知への意志

性の歴史 II  快楽の活用

性の歴史 III 自己への配慮

 

従って、第3巻の「自己への配慮」がフーコーの遺作となる訳だが、実は、幻の第4巻というのがあって、それが発売になるという未確認情報もある。

 

私は、前作の「監獄の誕生」から「知への意志」へと読み進めてきた訳だが、この2冊において、フーコーの権力論が語られているという説がある。そこで私は、フーコーの権力論に期待しながら、この「知への意志」を読み進めたのだが、ある種の戸惑いに直面した。例えば、フーコーは権力について次のように語っている。

 

・権力は性と快楽について否(ノン)と言うこと以外は何も「でき」ない。(P.108)

 

・要するに人は、権力というものを法律的な形態の下に図式化している。(P.111)

 

・何かを作り出すことは全くできず、ただ限界を課する以外に能のないこの権力は、本質的に反-エネルギーということになる。(P.111)

 

・権力は至る所にある。全てを統轄するからではない、至るところから生じるからである。(P.120)

 

重要だと思われる箇所を上にピックアップしてみた訳だが、何か、具体的なイメージは湧くだろうか? フーコーが言っている権力とは、法律的な何かのことだろうか?

 

そこで思案した訳だが、私なりの解釈を以下に述べてみたい。そういう学説がある、という訳ではない。あくまでも、私の私見に過ぎない。

 

フーコーが述べている権力というのは、エピステーメーとの関係で理解することができるのではないか。人間の社会においては、常に変化しようとするエネルギーが満ちている。それは科学的な知見であったり、人々の常識であったり、欲望などに基づいている。しかし、その変わろうとするエネルギーに対抗する規制というものも存在する。この関係は、ダムによって堰き止められる大量の水に似ている。社会的な要請に基づく変化しようとする力、これが蓄積される水の側のエネルギーだ。しかし、コンクリート製のダムがその力を堰き止める。この堰き止める力が、権力なのだ。そして、水の量が一定水準を超えるとダムは決壊し、一気に水が流れ出す。このようにして、エピステーメーは短期間に変化する。例えば、フーコーは、カオスのような状況にあったヨーロッパの懲戒制度が、近代的な監獄システムに変化するのに100年とはかからなかった、と述べている。

 

このように解釈すると、そもそもエピステーメーが何故、発生するのか、そして、短期間で何故変化するのか、その理由も見えてくる。すなわち、変えようとする力(水)は、常に増大し、蓄積される。他方、その力を堰き止める力、すなわち権力(ダム)があるから、ある時代に共通する常識や価値観、すなわちエピステーメーが成立するのだ。しかし、水のエネルギーが上回った時に、ダム、すなわち権力は崩れる。そして、時代は一気に変化する。

 

例えば、現在、世界各地で同性婚の合法化を求める声が高まっている。それは日本でも同じだが、憲法には「婚姻は両性の合意に基づき成立する」と書いてある。この解釈については議論のある所だが、一応、両性というのは男女を意味するので、憲法上、同性婚は認められないとする主張が成り立つ。やがて、同性婚を求める声、すなわち水の側のエネルギーが増加し、憲法や法律の力、すなわち権力を上回れば、時代は一気に変化するに違いない。

 

このように解釈すると、権力とは、反-エネルギーで、どこにでもあり、法律的な形態を持っているというフーコーの説明と矛盾しないように思う。

 

ところで、「知への意志」という本のタイトルだが、とてもいい言葉だと思う。その正確な意味を知りたいと思った訳だが、この本の中に然したる説明はない。この言葉は、さらっと次のように語られる。

 

- 一方は、西洋世界における科学的言説の確立を支えてきたあの巨大な<知への意志>に属するであろうが、それに対して他方は、<非-知>への執拗な一つの意志に属するものだとも言えそうだからである。(P.72)-

 

これだけで、特段の説明はない。「あの」と表現されているので、浅学の私が知らないだけで、有名な言葉なのかも知れない。

 

思うに、言語によって認識できる領域というのがあって、それは限られている。例えば、人間の無意識や夢など。無意識というのは、そもそも意識されないから無意識なのであって、これを言語化して認識するのはほとんど不可能ではないか。私も、夢はよく見るが、目覚めると同時に忘れてしまう。夜、床に着くと昨晩みた夢の状況がふわっと浮かび上がってくるようなこともあるが、それもあやふやで、つかみ所がない。夢を語る、夢を言語化するというのはとても難しい。

 

性の問題もある。文化人類学を学んでいると、無文字社会における性の形が、とても多様であることに気づく。21世紀に生きる日本人の間でも、それはとても多様で、性的欲望の本質というのは、結局、人間には理解し得ないものなのではないか。追いかけてみて、満足する場合もあるし、失望することもある。一度満足しても、それはやがて色褪せてしまう蜃気楼のようなものではないか。

 

このように人間には言語化することが困難な事柄が沢山あるのであり、その領域というのは、触れずにおいても良いのではないか。そこは断念する。そして、分からないということを受け入れた上で、侘びて行く、寂びて行く。そういう美意識があっても良いのではないか。そんなことを思いながら、「知への意志」を読み進めていくと、終盤になって、次のような記述に出会った。

 

- 西洋的人間は次第次第に学ぶのだ、生きている世界の中で生きている種であるとは如何なることか、身体をもつとは、存在の条件を、生の確率を、個人的・集団的健康を、変更可能な力を、その力を最も適した形で配分し得る空間をもつとは、如何なることであるのかを。(P.180)-

 

上に記した私の印象は東洋的であって、そのことをフーコーも知っていたのだ。あくまでも領域を選ばず探究しようとする知への欲求。それこそが、フーコーがこの文献のタイトルに込めた意味、すなわち「知への意志」ということなのだろう。

 

そこまで考えると、ふと気づくことがある。そもそも、このシリーズ原稿のタイトルは、「反逆のテクノロジー」というものだが、そこに私が込めた思いは、権力に対する反逆であり、そのための技術とはいかなるものか、それを検討しようというものだった。そして、権力の姿はおぼろげながらも見えてきたのである。その権力に対抗する、反逆を起こすための前提条件こそが、「知への意志」ではないだろうか。かつて、人間は何も知らなった。そこで、想像力を働かせて、様々な事柄を認識しようと努めてきたのだ。人間の歴史とは、認識の歴史でもある。例えば、無意識の領域はフロイトが、性の世界については文学者が、言語化を試みてきた。一見、とても理解できそうにもない領域、そこに向けて、問いを発してみる。それは、例えば古井戸の深さを知ろうと思って、小石を落としてみるような行為に似ているかも知れない。ポチャンという小さな音が返ってくるかも知れないし、その音は聞こえないかも知れない。それでも、小石を落としてみる。試してみる。仮説を立ててみる。そういう態度が大切なのではないか。「知への意志」とは、複雑化した権力に反逆を試みようとする透徹した意志のことなのだ。

 

(参考文献)

文献9: 監獄の誕生/ミシェル・フーコー/新潮社/1975

文献10:   知への意志/ミシェル・フーコー/新潮社/1976

 

注)「知への意志」は、「監獄の誕生」の翌年にフランスで出版されている。しかし、事情があって、和訳本の出版は遅れた。和訳本の初版の年を記述していたのでは、先後関係が混乱する。よって、フーコーの著作については、そのフランス語版の出版年を記述することとする。