文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その19) 権力に対抗する技術

ミシェル・フーコーの著作「知への意志」に、次の一節が記されている。

 

- 一方には、性愛の術を備えた社会があり、しかも、中国、日本、インド、ローマ、回教圏アラブ社会など、その数は多かった。(中略)それが秘せられねばならぬのは、その対象が汚らわしいものだと見なされることを恐れるからではいささかもなく、伝統的に、その知は、口外されればその効能と力とを失うと考えられているが故に、最も慎重に隠しておく必要があるからである。(P.74)-

 

性に関する秘密の術を記した何かが、日本にあったのだろうか。ここでも私は自らの不明を恥じなければならない訳だが、例えば江戸時代には好色一代男とか好色五人女井原西鶴)という作品があった。してみると、性の技術に関する「四十八手」的な書物が日本にあったのかも知れない。

 

上記の引用箇所に私が注目したのは、日本に関する記述があることだけが、その理由ではない。そこではなく、「秘密にされている」、「秘密にされていることによって、効能の力が維持されている」という点だ。

 

いずれにせよ、1976年のフーコーは諸問題を西洋の立場から検討している訳で、私は2020年に生きる日本人として、フーコーが提示している西洋と東洋の差異に関する問題について、向き合わざるを得ない訳だ。そこで、机上に一枚の白紙を置き、西洋文明の象徴としてのキリスト教とこれに対する東洋の宗教とを並べて書き、その差異を検討してみた。

 

東洋の宗教は、健康管理法との関連が深い。修行によって心身を鍛え、肉食を禁じて精進料理を食する。呼吸法に関する洞察があり、東洋の宗教家というのは、誰もが健康そうに見える。この修行によって心身を鍛えるという点に着目すれば、それは格闘技に通ずるところがある。例えば、中国には少林寺というお寺があって、そこから少林寺拳法太極拳が生まれた。太極拳は元来、格闘技だった訳だが、これを簡略化して、今では多くの中国人が健康法として取り入れている。八極拳という護身術もある。日本に目を向ければ、柔道、剣道、空手、合気道など、幅広い格闘技に関する伝統がある。例えば剣道であれば、それは斬るか斬られるかの真剣勝負だった時代があり、その時代に生まれたに違いない。どの格闘技も、その起源においてはそのような目的があったはずだ。しかし、時代が変遷した今日においても、何故、これらの格闘技が文化として息づいているかと言えば、それは人間の精神と身体とを区別しない東洋的な思想が背景にあって、身体的な鍛錬を積むことによって心身の健康を維持できると考えられているからだろう。そして、このような思想は、東洋における宗教観と密接につながっている。古来の日本から伝わる修験道も、インドで生まれ中国を経由して日本に伝わった仏教も、そして、上に記した様々な格闘技は、どれも厳しい修行を伴うのである。

 

東洋における宗教家と格闘家は、誰も痩せていて健康的だ。例外としては、相撲を挙げることができる。相撲は元来、護国豊穣を祈願する儀式として発展したもので、太った相撲取りの肉体というのは、たわわに実った稲穂のイメージにつながっていたのではないか。

 

少し話が脱線したが、東洋における伝統的な宗教は社会化して行かないという特質を持っている。出家する仏教徒は、頭を丸めて山寺に籠る。社会との関係を断つ訳だ。山を降りて大衆に説いて回った僧侶もいるが、その目的は布教であり、真理を説くことが目的ではなかったように思う。あくまでも僧侶だけが真理を知っている訳で、大衆は僧侶の説明を盲目的に信じたのだろう。例えばある僧侶は、念仏を唱えれば極楽に行けると言って、大衆はそれを信じた。ここには明らかに、真理を知っている僧侶と、それを知らない大衆という上下関係、換言すれば、権力関係を見て取ることができる。

 

対するキリスト教はと言うと、例えばプロテスタントの場合は、牧師がオルガンを奏でる。それに合わせて、信者が讃美歌を歌う。この讃美歌が、やがてゴスペルとなる訳だが、ここに権力関係は見られない。皆で合唱するという行為は、人間集団の結束を生み、それは社会的な広がりを持ち始める。

 

ここまで考えると、冒頭に記したフーコーの言葉とのつながりが見えてくるのではないか。

 

すなわち、東洋における宗教や格闘技などの文化は、あくまでも個人の身体が基底にあって、いくら鍛錬を積んだとしても、それは社会化していかない。別の言い方をすると、それらの身体的な修行は、言語に向かって行かないのである。反対にキリスト教は、言語化され、社会化されて行く。

 

この違いはどこから来るのか。そもそも人間集団には、それを統率する「知」というものがあって、キリスト教においてはそれが聖書において公開されているのである。反面、日本を含めた東洋社会において、「知」は秘匿され、大衆に公開されない。悟りを開いたと言われる僧侶は沢山いるのだろうが、その悟りの中身は決して言語化されず、公開されることがない。

 

古代のアニミズムからの伝統で考えた場合、それは東洋の方が自然なのであって、むしろ、聖書なるものが誕生したということの方が、奇跡に近いと思う。紀元前の人間が旧約聖書を記すためには、多くの人々の想像力があって、文字があって、並外れた努力の積み重ねがあったに違いない。現代に生きる私は、神の存在を信じていないが、彼らの努力には敬意を払いたいと思う。ここまで考えると私は、自分が東洋人であるということの前に、人間でありたいと思う。

 

人類の歴史というのは、秩序化に向かう歴史なのであって、この何らかの秩序を創出し、維持し、発展させようとした場合、必然的に権力が発生する。人間が2人集まれば、それだけで発生するのが権力だと言っても良い。性別、年齢、人種、社会的な地位、その他の差異から権力が発生する。しかし、絶望することはない。権力が存在するのと同じように、社会には「知」というものが存在する。それは単なる仮説に過ぎないかも知れない。しかし、その仮説を多くの人々が支持すれば、それは権力を上回る力を持ち得るのだ。西洋の歴史において、神、すなわち「知」よりも上位に位置した君主(=権力者)は存在しないだろう。「知」は時として、権力を擁護する。しかし「知」は権力を抑制し、歴史を前進させる力を持っているに違いない。そして、権力と「知」の関係を統御するのが、言語だと私は思う。それはパロール話し言葉)ではなく、エクリチュール(書き言葉)としての言語である。

 

言語によって「知」を公開すること。そこから生まれるのが、法治主義であり民主主義なのだ。簡単に、その歴史を記述してみよう。

 

紀元前、旧約聖書が書かれ、公開された。

 

キリストの死後、新約聖書が書かれ、公開された。

 

マルティン・ルターが95か条の提題を書き、それが公開された。

 

1776年、独立戦争を経て、アメリカの人権宣言が書かれ、公開された。

 

1789年、フランス革命を経て、フランスの人権宣言が書かれ、公開された。

 

1946年、日本国憲法が公布される。

 

もう一度、言おう。言語によって「知」を開拓し、公開すること。これこそが、権力に対抗する反逆の技術なのだ。