20世紀の前半、アメリカに住む黒人たちにとって「トレイン」は様々な意味を持っていたに違いない。乗車賃だって高額だっただろうし、「トレイン」に乗るということは、長距離の移動を意味していた。ロバート・ジョンソンが歌う“Love in Vain”のように、恋人との別れの舞台となることもあっただろう。また、厳しい生活から逃れるための希望を象徴していたこともあったに違いない。例えば、遠くから汽笛が聞こえる。それを聞いた黒人のブルースマンは、南の暖かい地域へ旅立つことを夢みたかも知れない。中には、汽笛の音をハープ(ハモニカ)で真似する者もいた。このように素朴な人々の営為に、私は感動を禁じ得ない。
ところで、ローリング・ストーンズは今年の9月に「山羊の頭のスープ」(Goats Head Soup)という作品のリミックスを発売した。これは発売直後にチャートの1位に躍り出た。本当に商売上手でため息が出るが、かく言う私も、これ、買ってしまった。そんなこともあって、最近、ストーンズの楽曲のリミックス版などが、YouTubeでも多く公開されている。それらを視聴していると、Silver Trainという曲の宣伝用画像に出会った。
歌詞には、こうある。
銀色の列車がやって来る ♪
さあ、あの列車に乗ろう !
そして、ハープの音がウ~、ウ~と来る訳だ。これは、確かに汽笛を模した音に違いない。どうか、そういう気になって、シルバートレインのエンディング近くを聞いていただけないだろうか。
The Rolling Stones / Silver Train Official Promotion
https://www.youtube.com/watch?v=iOUetwr3h04
シルバートレインの歌詞がどうなっているかと言うと、これが例に洩れず、よく分からないのである。何故か、女が登場する。彼女は、俺をハニーと呼ぶ。彼女は俺から金を受け取る。そして「俺は、彼女の名前を知らなかった」という部分がコーラスで繰り返される。総合すると、これは売春婦との情事を歌ったものと推測される。このようにストーンズには、性を暗示する歌がとても多い。Let’s spend the night togetherという曲では、「俺は今、普段よりもお前を必要としている」(Now I need you more than ever)という箇所がある。Under my thumbとか、よく放送禁止にならなかったものだと感心する。ただ、性を暗示するという意味では、英語という言語そのものが、そういう構造を持っているように思う。英単語には、性的な事柄を暗示するものがとても多いのだ。そのため、1つの文章に対して複数の解釈が成立することになる。そういう英語の構造があって、ストーンズの楽曲の歌詞が成立している。韻を踏む。性やドラッグを暗示する。そのようにして成り立っているのであって、日本語でこれを真似ることは困難を極める。
上記のようにストーンズの楽曲というのは、文化や言語の伝統の上に成り立っている訳だが、そこに留まらないのがストーンズの特徴だと思う。上に紹介した動画では、衣装に合わせてブルーのアイシャドーを塗ったミック・ジャガーが体をクネクネと動かしながら熱唱する訳だが、これを狂気と言わずして何と言うだろう?
ミシェル・フーコーによれば、西洋においては16世紀まで狂人と通常人が共に暮らしていたのだ。17世紀になると、狂人や怠け者は収容され、通常人の目にはつかなくなる。その収容所がやがて、監獄と精神病院に変わる。一見、社会から姿を消したかに見えた狂気は、19世紀になると文学の世界で復活する。マルキ・ド・サドがその典型である。やがてシステムに取り込まれた文学の世界から、狂気はその姿を消す。
しかし狂気は、20世紀において、ロック・ミュージックの世界で復活したのではないか? ミック・ジャガーに限ったことではない。ジミ・ヘンドリックスはステージ上でギターに火を付けたし、ジョン・レノンはベッドインを敢行し、各国の首脳にドングリの実を送り付けたのだ。
どうも狂気を排除し、若しくは無視しようとするシステム側と狂気それ自体との戦いが繰り返されてきた歴史の一断面が見えてくる。その戦いは熾烈を極め、今日も激化しているように思えてならない。
狂気とは何か。それを定義することは困難だが、とりあえずこう考えてみるのはどうだろう。通常人が成し得ることができなくなること。若しくは、通常人が行わないことを行ってしまうこと。前者の例で考えると、うつ病などで就業できなくなるケース。極端な例で考えれば、生きることそれ自体を断念してしまう自殺という現象がある。後者の例で言えば、それは犯罪行為ということになる。精神病に罹患してしまう、自殺してしまう、犯罪行為を働いてしまう。狂気の外観を見た場合、このような類型を措定することができる。どうだろう。現代社会においては、これら3つとも深刻な状況にあるのではないか。
少し、日本の文化と狂気の関係を見てみよう。狂人を描く文化の歴史は、「能」の世界にまで遡る。「狂言」も同じではないだろうか。そして、終戦後の日本を沸かしたのは、プロレスである。アントニオ猪木の全盛期があって、アブドーラ・ザ・ブッチャーやタイガー・ジェット・シンなど、外国人の悪役レスラーが悪行の限りを尽くし、日本の大衆はこれに熱狂した。かく言う私もその1人だった。近所の体育館で新日本プロレスの興行があり、恐る恐るこれを見に行ったのだ。シンがサーベルの柄で藤波辰爾を攻撃し、藤波の顔面が血で真っ赤に染まったのを覚えている。
このような過激なものだけではなく、狂気は、大衆文化の中にも息づいてきたのだ。西洋においては、通常人と共に暮らしていた狂人がサーカスのピエロの原型となったそうだが、このようなパターンは日本にもある訳で、例えば、映画「男はつらいよ」に登場する寅さんを挙げることができる。寅さんはちょっと抜けていて、滑稽である。しかし、寅さんは通常人にはどうすることもできないような問題を、解決して見せたりする。「裸の大将」も同じで、洋の東西を問わず、文化が狂人を見る目には、優しさがあるのだ。
精神病を患ってしまう人、自殺してしまう人、犯罪に手を染めてしまう人、これらの人々をゼロにすることができないのが人間社会の現状であって、結局、現代文明においても狂気の正体は未だに解明されていない。そうしてみると、当面私たちは、私たちの文化が狂気と向き合ってきた、その手法から学ぶ必要がありそうに思える。それは、狂気を排除することではない。無視することでもない。まず、人間の中に狂気が潜んでいることを認め、それを再現し、何とかそれを飼い慣らすことではないか。
プロレスが好きで、ロック・ミュージックに傾倒し、こよなく寅さんを愛している私の中に、狂気は確実に存在している。それはあなたも同じではないだろうか。