文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その23) 美を扱う技術

美とは何か、という問題を主に考え続けてきたのは、文学者ではないだろうか。例えば、三島由紀夫も美について考えた作家の1人である。彼のギリシャ彫刻趣味や、ボディービルで肉体を鍛え上げるという発想には辟易するが、ただ、滅びゆくものこそが美である、という主張には賛同できる。桜は散るから美しい。

 

女性の中に美を見出した作家の1人に、川端康成がいる。半世紀も前に読んだ小説なので記憶は曖昧だが、「伊豆の踊子」にはこんなシーンが描かれていた。主人公である書生は、たまたま離れた所にある露天風呂に入っている旅芸人の家族を目撃してしまう。書生は眼をそらそうとするのだが、その瞬間、踊り子の少女が全裸のまま立ち上がって主人公に向かって手を振るのだ。このシーンが意味するのは、まだ羞恥心さえも持ち合わせていない少女の純粋さである。遠くない将来、少女は大人の女性へと成長を遂げるに違いない。その直前の、一瞬の煌めきを川端は捉えたのである。作家の慧眼に敬服する他はない。

 

このようにある種の美は、時間と空間の中で突如として現出し、消えていく。それは何処に現われるか、予測すらできない。ところが、私たちの文化には奥行きがあり、そのような美を扱う技術が存在する。

 

例えば、谷崎潤一郎の随筆に「陰影礼賛」という随筆があって、これは伝統的な日本家屋の中に潜む影の領域に美を見出そうという主張である。人間の無意識などを含めて、全てに光を当てようとする西洋の思想と対照をなすもので、いかにも東洋的、日本的な発想だろう。かつては、たとえ小さな家であっても、床の間を設ける例が多かった。狭い家なので空間は貴重だが、それでも床の間を設け、そこに掛け軸を掛けたり生け花を置いたりして、四季の風情を楽しむのである。これなども西洋の合理主義には、対抗する。

 

例えば、西洋料理に使われる皿はどれも白く、底の浅いプレートと底の深いディッシュ、それにスープ皿を加えた3種類程度しかない訳だが、和食に用いられる食器は無数だ。調味料を入れる小皿があり、漬物などを入れる小鉢があり、焼き魚を置く長方形のものや、煮物を入れる円形のものがあり、木製のお椀があり、茶碗がある。それぞれの食品の味が混在しないようにという合理的な配慮もあるだろうが、それ以上に器そのものに美を見出しているのだ。

 

日本舞踊や茶道は、人間の一挙手一投足の中に美を生み出そうと努めているし、その伝統は、日本旅館の仲居などが受け継いでいる。着物姿の彼女たちは、客をもてなすために三つ指をついて、頭を下げる。その所作の中にも美しさがある。

 

最近の若い人の事情を私は知らないが、昭和の時代には、多くの日本人が心に抱く原風景というものがあった。それは里山であり、畑や田んぼがあって、道路は舗装されておらず、のどかで美しかった。野に季節の花が咲きほこり、秋になれば農家の庭先に柿の実がなった。その風景は、とても懐かしく、心が安らぐ場所だ。何県の何町が、という訳ではない。このような風景は、日本の田舎へ行けば、何処にでもあったのだ。

 

つまり、こうして人為的に美を作り出す技術を、かつての日本人は持っていたのだ。それは、10年とか20年という短い時間の中で成し得るものではない。100年、いやもっと長い時間を掛けて、人々が工夫し、考え、積み上げてきた伝統というものがあって、初めて成立する美なのである。

 

では、そのように伝統を継承し、日本の美を創造し、維持し、発展させてきたのは誰なのだろう。それは日本家屋を作ってきた大工であり、食器を作ってきた陶工であり、旅芸人であり、農民であり、旅館に務める仲居なのだ。すなわち、美を創造する技術を持ち、それを継承してきたのは、大衆なのである。権力者ではなく、大学教授でも役人でもなく、どこにでもいる市井の人々の功績なのである。

 

美は、自然と共にある。自然を征服しようとする態度によって、美は生まれない。自然に少しだけ手を加えることによって、美が生まれるのだ。例えば、人が立ち入ったことのないアマゾンのジャングルがあったとして、そこは美しいだろうか。確かに原色の花が咲き乱れていて、それなりに美しいかも知れない。しかし、その花を一輪だけ切り取って、花瓶に入れてみれば、その花はより輝くに違いない。例えば、民家の裏に小さな山があったとする。木の杭を使って階段上の道を作れば、その山はより魅力的になるはずだ。

 

美しいと感じるか、そうではないと感じるか。これは人間の認識能力の極めて基礎的な要素だと思う。知識は不要だし、ましてやロジックやイデオロギーなどというものとは無縁なのだ。私たち日本人の心の底にある美意識。これをもって、西洋の合理主義やグローバリズムに対抗することはできないだろうか。