文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ジョンの人生

 

昨日は、ジョン・レノンの命日ということもあって、ジョンに関するいくつかの記事や写真がブログやツイッターに掲載された。つらつらとジョンについて考えていると思い当たることがあって、この記事を書くことにした。

 

思うに、人間が生きている世界を単純化して考えれば、次の3つの水準に分けて考えることができるのではないか。

 

個人的水準・・・自我、無意識、狂気、家族、性、恋愛

 

文化的水準・・・芸術、美、伝統、中間集団、職業、調和

 

政治的水準・・・国家、憲法、法、戦争、思想、対立

 

この世に生まれてくると人間はまず、家族に出会う。やがて自我が芽生える。厄介なことに、それは無意識や性、狂気などを孕んでいる。これが「個人的水準」。やがて、中間集団に所属する。それは学校であったり、職業集団だったりする訳だが、ここで伝統的な技術や芸術に接することになる。これが「文化的水準」。この水準においては、美の発見があり、物事を調和させることが可能である。更に認識の射程を広げると国家が見えてくる。国家を構成する憲法があったり、国家間の対立があったり、その究極的な事象としての戦争があったりする。この水準において、物事は対立する。

 

ジョンの場合を見てみよう。ジョンは、貧しい港町リバプールで船員の息子として生まれる。母であるジュリアは職業に就いていたこともあって、ジョンは「ミミおばさん」に育てられる。そこら辺の事情から、ジョンの人生には女性が大きな意味を持つ。不良少年だったジョンは、若くしてシンシアと結婚する。ここまでが、ジョンにとっての「個人的水準」の時代。

 

その後、ジョンはポールと出会いビートルズを結成する。ビートルズの活動が、ジョンにとっては「文化的水準」の時代となる。ビートルズは、メンバーがそれぞれの恋愛感情などを文化的水準に引き上げて、表現したと言えよう。但し、ビートルズというバンドは、「政治的水準」を視野に入れてはいない。例えば、ポールの作品であるLet It Be(そのままにしておけ)は音楽的に傑作であることに疑いの余地はないが、そこに特段の思想は認められない。

 

ビートルズの活動中、ジョンは前衛芸術家のヨーコに出会う。ジョンはシンシアとは離婚し、ヨーコと結婚する。ヨーコとの出会いによって、ジョンの中で何かが弾ける。そして、あくまでもビートルズの活動継続を望んだポールとは反対に、ジョンはその活動に対する興味を失う。ビートルズを脱退したジョンは、政治的なメッセージを発し始める。ある日、ヨーコがベトナム戦争に関するビデオをジョンに見せたのがきっかけだった。ジョンは、急速に政治的な方向に向かい始める。思いつくままに、当時のジョンのメッセージを並べてみよう。

 

Power to the people / 人々に力を

God is a concept / 神とは、概念に過ぎない

War is over, if you want it / 戦争は終わる。もし、あなたがそう望めば

All we are saying is give peace a chance / 平和に機会を

I do not want to be a soldier / 兵士になんて、なりたくない

 

つまり、政治的水準を認識の射程に入れたジョンがいて、それを認識しようとしなかったポールがいた訳で、ビートルズ解散の理由は、そこにあったのだろう。ビートルズ脱退後のこれらの時期がジョンにとっての「政治的水準」の時代だったのだ。

 

ただ、そこでジョンは終わらなかった。もう一度、「文化的水準」に戻ったのだ。そしてジョンは、あの「イマジン」を発表する。「イマジン」においてストレートな政治的メッセージは消え、分かりやすいメロディーにのせて、ジョンは人々に平和と融和を優しく歌いかけた。つまりジョンは、文化的水準に回帰したのである。

 

ジョンの人生 / 個人的水準 → 文化的水準 → 政治的水準 → 文化的水準

 

ポールの人生 / 個人的水準 → 文化的水準

 

同じような例は、画家のゴーギャンゴッホにも言える。株式の仲買人をしていたゴーギャンは、一念発起して画家に転ずる。ゴッホとの共同生活を経て、ゴーギャンは1人、南海の孤島を目指す。ゴーギャンは、近代西洋文明に絶望したに違いない。そうでなければ、祖国や家族も含め、全てを捨て去ることなどできるはずがない。ちなみに、西洋文明を否定して原始への回帰を求める芸術的な運動を指して「原始主義」という。

 

最後にゴーギャンは、文明の影響を最小限に留めるヒバ・オア島に辿り着き、市井の人々の中に美を発見する。そこで孤独な死を遂げたゴーギャンもまた、最後は、絵画という文化の世界に回帰したのだ。

 

対するゴッホは、あくまでも自身の無意識や狂気、そして取り巻く自然と向き合いながら、最後は、ピストル自殺に及ぶ。自殺というショッキングな行為の影響もあって、ゴッホは死後、最高峰の画家としての評価を得たに違いない。そのことに異を唱える訳ではない。しかし、2人の人生を考えた場合、私はゴーギャンに軍配を上げたいのだ。

 

先の原稿に記した武田泰淳も同じだ。政治的水準までを認識の射程に収めた上で、最後は、文化に回帰する。ここに、人生の極意がある・・・と、私は思う。