人生とは、路上のカクテルパーティーである。
ミック・ジャガーは「シャタード」という曲の中で、そう歌った。(Life is a cocktail party on the street.) なるほど、うまいことを言うものだ。人間は無から生まれ、無に帰ってゆく。その間、無数の人々と出会い、別れ、1人で死んでいく。その間の一瞬の人間の営みは、宴に似ている。だから、誰かが歌ったり、隠し芸をしたり、面白いことを言ったりする方が良い。そうでなければ、宴は盛り上がらない。黙って座っているより、何かを発信した方がいい。宴を盛り上げることとは、文化を前進させることに他ならないのだ。
ところで、物事には様々な見方がある。特に、人文科学が対象としている分野については、無数の見方があるのであって、未だ、これと言った決定版は生まれていないように思える。例えば、「人間の歴史とは、秩序化の歴史である」と主張する人がいる。確かに、そうだろう。道路を見れば良い。全てのクルマは左側を走り、赤信号の前で人々は立ち止まる。一方私は、「人間の歴史とは、個別化の歴史である」と言いたいのだ。かつて人々は、集団で行動していた。寝る時も、狩りをする時も、人々は群れをなしていたはずだ。ところが現代において、人々は狭く区切られたコンクリート製の住居を好み、ほとんどの人間が自分の部屋を持つに至った。職業にしても、考え方にしても、着るものから食べ物の好みに至るまで、現代人は千差万別なのだ。
「秩序化」と「個別化」。一見、相矛盾するこれらの指摘は、どちらも正しいに違いない。若しくは、どちらも部分的には正しいが、総体としては間違っている、と言った方が正確だろうか。ここら辺が、数学のように割り切れない難しさである。
例えば、私はこのブログに「文化領域論」と称する原稿を掲載した。これは文化の領域を想像系、身体系、記号系、物質系、競争系の5種類に分類するというものだ。私は、今でもこの考え方を支持しているし、そんなことを考えたのはこの世で私だけなのだから、それは今でも誇らしく思っている。
その後、私はミシェル・フーコーの思想に影響を受け、権力やシステム、「知」ということを考え始めた。加えて、日本の伝統や美についても気に留めるようになった。すると、5つの文化領域の中の一体どこに、それらが存在するのか説明できないことに気づく。
つまり、私の「文化領域論」も「秩序化」や「個別化」と同じであって、一面、それは正しいのだが、総体を表わしてはいない、ということではないか。これは困った。
困った時には、人間の原点に遡って考えるのが、私の思想の特徴だ。いや、もっと遡ってみよう。人間がまだ、サルだった時代にまで。
サルは集団で移動しながら、小動物や木の実を食べて生活している。時折、他の集団とメスを交換したりしながら、その集団の中で暮らしている訳だ。食べることと、子孫を残すための生殖活動だけなのだ。ある意味、サルの生活はとても合理的だと言える。無駄なことは一切しない。自分が生きて、子孫を残す。この必要不可欠な行動領域を仮にここでは「生存領域」と呼んでおこう。
しかし、サルが人間になるにつれ、変化が訪れる。古代人は、一見、生活に必要だとは思えない行動を取り始める。古代のヨーロッパ人は、洞窟の壁に狩りの絵を描いた。かつてアイヌの人々は、「呪術的仮装舞踊劇」なるものを演じ始める。これらの行動は、明らかに「生存領域」に属するものとは異なる。その目的は呪術や慰霊にあった訳だが、そこから人間は、この世界を認識しようと努力し始めたのだ。動物たちの世界はどうなっているのだろう、死んだ先にはどのような世界があるのだろう。そのような疑問が、人々をこれらの試みに導いたに違いない。この一見、人間が生存し続けることに対しては意味をなさないと思われる行動の分野を、ここでは「認識領域」と呼んでおこう。
つまり人間の歴史には、まず、生存に必要不可欠な「生存領域」というものがあって、そこから、一見、必ずしも必要とは思われない「認識領域」が分岐したのだ。
やがて「生存領域」は、衣食住に関わる文化を生む。そこに美の発見があり、伝統が生まれる。貨幣が作られ、経済の発展へとつながる。
他方、「認識領域」は芸術を生み、宗教に発展する。哲学から分岐した科学が発展を遂げる。時代の価値観を主導する「知」は、この領域に存在する。
そして、複雑化した現代社会も、実は上記2つの領域をベースに成り立っていると考えられないか。まだ、アイディアの段階だが、この考え方を発展させれば、私の文化論とフーコーの哲学を融合させることができるに違いない。
ところでこのブログですが、フーコーについては「快楽の活用」と「自己への配慮」を検討した上で、原稿を掲載する予定です。その後、上記の考え方を発展させることができれば、新しいシリーズ原稿に取り組みたいと思っております。来年も、宜しくお願い致します。
それでは皆様、どうかコロナにはお気をつけいただき、良い年をお迎えください!