文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

宇宙、生命、人間、そして文化

宇宙の成り立ちについて、何かの本で読んだ話はこうだった。

 

まず、点があった。その点の中には、全宇宙を構成する質量とエネルギーが存在していた。どこにあったのか。それは、言えない。何故なら、未だ、空間が存在していなかったのだから。いつからあったのか、それも言えない。何故なら、未だ、時間が存在してなかったのだから。

 

そして、その点が大爆発を起こす。ビッグバンだ。その爆発と共に、空間と時間が生まれる。その爆発の影響は今日においても続いていて、宇宙は膨張を続けている。以前は、万有引力の法則があるので、やがて宇宙の膨張は止まると考えられていた。すると、宇宙空間は収束に向かう。一つの点に回帰して行くのだ。面白いのは、宇宙が収束に向かい始めると、時間が逆行するはずだ、と科学者たちは考えていたことだ。時間が、遡る?

 

しかし、その仮説は間違っていることが判明した。宇宙の膨張は今日も続いているが、そのスピードは増加しているのだ。すると宇宙は、永遠に膨張を続けることになる。永遠に膨張を続けるとどうなるかと言えば、宇宙空間の密度は低下する。そして、最後は無に帰するらしい。宇宙がなくなるのだから、もちろん人類は滅びる。但し、そのずっと前に太陽が燃え尽きるので、その時点で人類は滅びるに違いない。

 

この現象を3段階で記すと、最初に点のようなものがある。これをここでは、「起点」と呼ぼう。そして、「起点」が拡散する。最後に、全てが消失する。この3ステップということになる。

 

次に、生命の誕生にまつわる話はこうだ。昔、海底にマグマの噴出する場所があった。そこで、科学反応が起きて、偶然、たった一つの細胞が生まれる。その細胞が分裂を繰り返し、地球に生命体が誕生する。全ての生命体の起源は、偶然生まれたたった一つの細胞だと言われている。魚だって鳥だって、皆、2つの目と鼻と口を持っている。祖先を遡れば、人間と同じだったはずだ。幸い、人類は未だ生き延びているが、既にマンモスや恐竜は死に絶えた。いずれ人類だって、死に絶えるだろう。その時期は、きっと太陽が燃え尽きるよりもずっと前であるに違いない。起点としての細胞があり、それが拡散し、最後は絶滅するのだ。

 

人間はどうか。細胞が分裂して、生命体が生まれ、恐竜の時代にネズミのような動物がいた。このネズミのような動物が進化を繰り返し、サルが生まれる。サルは樹上で生活していたが、気候変動によって、ある時、森が消失する。そして、地上に降り立ったサルが2足歩行を始めたという説がある。サルは原人となり、旧人へと進化を遂げる。そして20万年前に、アフリカのある村で、突然変異が起こる。そして、ホモサピエンスが登場する訳だ。現在、地球上に70億人いると言われる我々ホモサピエンスも、元をただせばわずか数十人の村人に過ぎない。ホモサピエンスは、6万年程前にアフリカ以外の地域へと拡散を始める。ヨーロッパに向かった者は、そこでネアンデルタール人を滅ぼした。ユーラシア大陸へと向かった者は、そこでヒマラヤ山脈の北側ルートに向かった者と、南側ルートに向かった者とに分かれる。そして両者は、アジアで再会を果たす。ホモサピエンスは更に移動を続ける。当時は地続きだったベーリング海峡を越え、北米に渡り、南米大陸へと到達する。

 

ここでも、アフリカのある村を起点として、その後、拡散するという原則を見て取ることができる。人類は、未だ、消滅はしていなのだが。

 

このような原則は、実は、文化にも当てはまるのではないか。

 

ある起点のようなものがあって、それが枝分かれし、拡散していくのだ。そして、拡散すればする程、その密度は低くなり、やがて消失する。先の原稿にならって、人間が生きていくために必要な領域を「生存領域」とし、それ以外の人間が仮説をたて、それを実践し、何かを認識しようとする営みを「認識領域」とするならば、その傾向は特に「認識領域」において、強固なのだと思う。

 

では、認識領域の起点はどこにあったのか。この点は、アイヌ文化において「呪術的仮装舞踊劇」なるものが存在したという事実に出会った時、私は、これだと直観したのであるが、実は、和人の文化においても同じようなものの存在することが分かった。「神楽」(かぐら)である。笛や太鼓が奏でる音楽に合わせ、仮面を被った者が、劇を演じる。ちなみに神楽は、神に捧げる儀式として演じられていたという説もある。してみると、神楽には音楽があり、信仰やアニミズムがあり、コスプレの原点があり、物語(文学)があり、美術があるのだ。芸術や宗教を取り巻く全ての要素が含まれているのである。これを起点として、様々な分岐や拡散を通じ、後の芸術や宗教へとつながっていったに違いない。

 

神楽は日本に固有のものだが、中国文化には「京劇」があり、シャーマニズムは世界各地に存在していることが分かっている。

 

サルと人間の違いはどこにあるか、という問題がある。この点、いくつもの説がある。火の取り扱い、二足歩行、言語など、多くの相違点を挙げることができよう。ただ、私の立場からすれば認識領域を持つのが人間で、それを持たないのがサルだ、と言えるように思う。そして認識領域というのは、バーチャルな世界を作り出す所から出発しているのだ。あくまでも現実世界を模倣し、そこに想像力を加味し、虚構の世界を作り出す。そうやって、人間は世界を認識しようとしてきたに違いない。

 

そもそも、真理は存在するのか。多くの哲学者たちが、この問題を議論してきたに違いない。しかし、議論をするのであれば、その前に真理とは何か、それを定義する必要がある。あいにく私はその定義を知らないし、自ら定義する能力をも持ち合わせていない。ただ、原理は存在すると思っている。ある原理があって、その原理に従って世の中は動いているのだし、人間も行動しているはずなのだ。宇宙の原理と文化の原理を結び付けるのは、いささか強引に過ぎるだろう。しかし、起点があって、それが拡散し、やがて消滅するという原理は、文化の世界にも当てはまるように思う。私たちが意識していないだけで、実は、多くの文化が既に死滅しているに違いない。

 

遅くなりました。

 

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。