文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その3) 原始領域 / 呪術

 

呪術の本質は「物に願いを込めること」だと、かつて私は、このブログに書いたことがある。しかし、いくつかの事例に照らし合わせて考えてみて、そうではないことに気づいた。お詫びして訂正いたします。

 

呪術の本質は、「超越的因果関係論」にあるのではないか。

 

例えば、夜空に輝く星座の動きと、人間の運命の間に何らかの因果関係がある。そう考えて生まれたのが占星術だ。生まれた月日によって、星座が決まる。あなたはさそり座だとか、牡羊座だ、という具合に。そして、その星座によって運命判断がなされる。星座の動きと人間の運命。両者の間に因果関係など、存在するはずがない。この存在するはずのない因果関係をあえて認定する。存在するはずがないので、それは「超越的」と言う他はない。それが呪術の本質ではないか。

 

言うまでもなく、星座の動きも人間の運命も「物」ではない。私が旧説を訂正する理由がここにある。

 

北米の先住民であるプエブロ・インディアンは、自分たちが祈るから、東の空から太陽が登ってくると考えていた。従って、自分たちが祈るのを止めると、太陽がやって来なくなり、この世は闇となる。祈るという行為と、太陽の動き。

 

ナバホ・インディアンは、夜中にテントの中で様々な色の砂を用いて絵を描いた。そして、夜が明ける前にそれをかき消す。そうすることによって、病気が治ると考えていた。砂絵と、病気の治癒。

 

日本人は、成田山でお守りを買うと交通安全に役立つと思っている。勝負師はゲンをかつぐし、数字の7はラッキーで、13は不吉だとされる。その他にも手相、顔相、血液型による恋占いまである。

 

きりがないのでこれ位にしておくが、いずれの場合も合理的な因果関係というものは、存在しない。しかし、この「超越的因果関係論」を唱える者は、呪術師、妖術師、占い師などと呼ばれ、その数は決して少なくない。

 

この呪術と呼ばれる1つの認識方法は、何故、生まれたのだろう? その主な理由の1つには、やはり病気を治すということがあったのではないか。

 

次に、先の原稿で述べた祭祀と呪術との関係を考えてみよう。祭祀の場合は、動物信仰が基底にあり、トランス状態に陥ることが必須条件だった。他方、呪術の場合、その双方は存在しない。また、祭祀の場合は部族、民俗の結束を高め、その幸福を願うのが目的だったように思う。そこに、「個人」は登場しない。他方、呪術の場合はあくまでも個人的な願望なり、利益を目標としている。すなわち、呪術の段階においては、自我の芽生えを認めることができるのだ。従って、原則的には、祭祀よりも呪術の方が後に発生したものだろうと思う。

 

ところで、呪術には白呪術と黒呪術とがある。誰かの幸運を願うのが白呪術で、反対に誰かの不幸を願うのが黒呪術である。魔術にも白と黒とがあって、事情は同じだ。では、白と黒のどちらが先かという問題があるが、私は、白呪術の方が先だと思う。

 

祭祀の段階では、まだ、権力というものが存在していない。私有財産という概念も未発達で、原始共産制が採用されていた。そして、祭祀と白呪術とは類似する例がある。例えば、病気の治療を目的とした行為をトランス状態に入って行うなど。

 

やがて、社会に権力が生まれるが、それは次の原稿で述べる予定の「修行型」においてだと思う。権力が生まれて、人々は思うように願望を叶えることができなくなった。復讐することができなくなったのだ。そこで、反権力としての黒呪術や黒魔術が生まれたのではないか。

 

祭祀型 → 白呪術 → 修行型 → 黒呪術

 

そのような順序で考えるのが、合理的だと思う。

 

超越的因果関係論というのは、まったくもって奇妙な認識方法である。ただ、無数にある野草と病気の治癒ということを結び付けて考えた人がいて、それが後に漢方薬という体系を生んだ可能性があるし、更には、西洋において錬金術が生まれ、それが科学のベースとなったという説もある。あてずっぽうに試してみる、仮説を立ててみる。そういう認識方法があって、今日の私たちの社会があるのだ。