文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その5) 原始領域 / 内向する知

 

「真善美」という言葉があるが、思想が、私が、いや、もしかしたら私たちが目指しているのは、そういうことなのだろうか。真、善、美。これらの言葉はとても崇高で、気高く、毅然とした何かを表わしている。しかしそれらは、何処か遠い所にあるような気がしてならない。

 

私たちが目指しているもの。それはもっと身近な、ある「強さ」のようなものではないのか?

 

仏教用語に「四苦八苦」というのがある。そのうちの四苦とは、生老病死を意味している。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、そして死ぬ苦しみ。そういうものから、人は逃れることができない。例えば、病気になる。現代社会においてはその原因を探究し、薬や外科手術や、最近では患部にレーザー光線を浴びせることによって、病に対抗しようとする。但し、現代医学をもってしても、老いと死に立ち向かうことはできない。ましてや、生きることの苦しみということを考えると、現代のあらゆる知性を総動員しても、これを解決することは出来ていない。

 

生老病死。これらの宿命とも言える課題を、それらに立ち向かうのではなく、自らの心身の内部において解決しようという試みを、人間の歴史の中に見て取ることができる。

 

比叡山延暦寺などで1200年に渡って行われてきた千日回峰行。これはひたすら山中を歩く修行である。本を読んだり、何かのレクチャーを受けたりという現代のアカデミズムが採用している方法とは、根本的に異なる。ひたすら自己と向き合う。内向するのである。そして、自らの身体を死に近づける。死への近接を経験することによって、死に対する恐怖を克服しようとする試みなのではないか。生老病死における最大の恐怖、それは死であって、それを恐れない強い心身を作る。それが、この修行の目的なのではないか。

 

もし、仏教上の悟りというものがあるとすれば、それは生老病死をも恐れない強い心身を持つこと、そのような心境に至ることを意味しているのではないか。だとすれば、元来、言葉によって思考することを旨としていない修行者に対し、それを言葉で説明せよというのは、少し、酷かも知れない。

 

このように内向するという「知」の形は、一見、東洋的だと思われるが、実は、古代ローマの哲学者、セネカ(紀元前1世紀頃)も、似たようなことを考えていたのである。フーコーの著作、「自己への配慮」から抜粋してみよう。

 

- 毎月「架空の貧困生活」についてささやかな実習を行うべきであり、その実習期間中は、三日もしくは四日間、「極度の窮乏状態に」自発的に身を置いて、粗末なベッドと粗悪な衣服と一番ひどいパンを経験する。(中略)ある期間、わが身を不自由の状態に置くのは、将来、手の込んだ上等のものをいっそうよく楽しもうとするためではなくて、最悪の不幸に直面しても必要不可欠なものに事欠くことがなく、時たま耐え忍ぶ力を発揮できた事柄を今度はつねに我慢できる点を確信するためである。(P. 80)-

 

- 「貧しいことがどんなに苦しくないことであるかが分かるなら、豊かな者は、いっそう自分の心が安んじるのを感じるであろう」。(P. 81)-

 

富める者は、自分が貧困状態に陥ることを恐れている。しかし、貧困に陥った状態を予め経験しておけば、それに対する心理的な耐性が生まれ、穏やかな気持ちで暮らすことができる。すなわち、恐れる貧困にあえて近づくことで、より強い自己を確立できるだろう、という訳だ。これなども、「内向する知」の一種だと言えよう。

 

フーコーは「快楽の活用」の中で、哲学と「強さ」の関係について言及している。

 

- 哲学が明らかにできるものというと、実際それは人が「自分より強いもの」になることであり、人がそうなってしまうと今度はさらに哲学は、他の者よりまさる可能性を与えてくれる。(P. 268)-

 

思想によって、より強い自己を確立する。思想とか修行というのは、そのようなものではないか。私は宗教に対して批判的な立場を採ってきたが、少し、変化が生じたことになる。但し、「内向する知」においては、他者が登場しない。自分が理解できない、理解することが困難な他者が登場しないので、自ずとその「知」には限界がある。例えば今、話題の「男女平等」とか、そのような概念に到達することはない。