文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その8) 生存領域

 

原始領域は、人間が何らかの危機に瀕したときに生まれた領域だ。例えば、アイヌの歴史を考えた場合、彼らはかつて、精神的な危機に瀕したのだろうと思う。彼らは熊を重要な食糧源としていた。食べなければ、彼ら自身が飢えてしまう。しかし、殺すとき、熊は血を流し泣き叫ぶだろう。食べなければならない。しかし、殺したくないという二律背反に彼らの精神がさいなまされたであろうことは想像に難くない。この二律背反の課題を解決するために、「知」が生まれたに違いないのだ。物語による概念の創出である。熊は肉体の他に魂を持っていて、それをアイヌの人々はカムイと呼んだ。熊を殺すとカムイは、天空のどこか、カムイが住む場所に帰っていく。だからアイヌの人々は、熊のカムイを慰霊するための祭祀を繰り返したのである。そのような「知」によって、アイヌの人々は精神的な危機を脱し、生きるための「強さ」を獲得したに違いない。

 

他方、人間には危機に瀕していない平穏な時期もあった訳だ。その平穏な時期なり空間において生まれたのが、生存領域である。従って、原始領域と生存領域とは、パラレルの関係にある。

 

まず、自然があった。そして人間は、自然に働き掛けることによって、その恵みを享受してきた訳だ。自然とのインターフェイス。それが、人間が今日まで生き続けてきた活力の原点である。それは、1日たりとも絶えることなく、今日まで繰り返し続けられてきた人間の営みなのであって、この領域の中にこそ文化を構成する中核的な要素が潜んでいる。

 

ある時、人間は家を作るようになった。そして人間は、家に家族単位で居住するようになる。結婚という家族制度は、人間が家を建てるようになった後に生まれたのではないだろうか。日中、家の外に出かける男たちは、様々な職業に就いた。職業は次第に分化され、やがて物々交換の時代を経て、貨幣経済へと向かう。一方、家の中に留まることの多かった女たちは、家の中での文化を生み出す。例えば、子守歌を歌ってきたに違いない。幸い私たちは、アイヌ女性の素晴らしい歌声を、今でも聞くことができる。

 

イフンケ 安東ウメ子 9分37秒

UMEKO ANDO - Ihunke (excerpts) - YouTube

 

イフンケというのは、アイヌ語で「子守歌」という意味だ。この歌を聞くと、人間の長い歴史において歌い続けてきたのは女たちだと、しみじみ思う。

 

同じことを繰り返す日々の暮らしの中から、伝統が生まれる。例えば、日本の豊かな食文化を育て上げてきたのは、その生存領域においてである。食事は、栄養の配分も大切だが、その味も大切だ。サンマは新鮮なうちに焼いて食べるのが良い。アジは開きにして、カマスはみりん干しにする。そういう知恵が、庶民の中で育っていく。塩は世界共通だろうが、日本人は、味噌や醤油という独自の調味料を発明した。21世紀の今日においても、和食の調味料として、この2つは健在だ。この習慣は、今後とも長く続くに違いない。

 

ただ、日本人はおいしく食べるということに飽き足らず、そこに美を求めるようになる。日本で陶器などの文化が発達したのは、日本の土がそれに適していたという事情もあるだろう。そもそも、岩盤の多いヨーロッパにおいて陶器を焼くのに適した土を見つけるのは困難ではないか。和食の店は、その暖簾から、板前の服装や一挙手一投足に至るまで、洗練されている。使う包丁だって、その用途に応じて何種類にも分けられている。魚を美しく切り分けるためには、すなわち刺身の角を鮮明に残したままで切り分けるためには、良く研がれた長い包丁が必要であるに違いない。このような文化の体系というのは、一朝一夕に出来上がるものではない。

 

すなわち、美は生存領域の中で、その長い伝統の中でこそ、生まれるものなのだ。

 

単調な毎日を彩るためには、娯楽も必要だ。娯楽の多くは、原始領域から流入してきたのだと思う。「祭祀」から宗教色を除外したものが夏祭り、盆踊りなどの行事ではないか。歌があり、踊りがあり、そして私たちのカレンダーには、祝祭日が設けられている。結婚式があり、葬式があり、学校には入学式や卒業式がある。いずれも、その起源は「祭祀」にある。

 

この人間の生活の基礎をなす領域において、人々は、緩やかな集団を形成した。それが共同体である。村落共同体と言ってもいい。どこか懐かしい響きを持つ「共同体」という言葉ではあるが、そこは決して楽園ではない。

 

共同体には、法律や国家権力が介入しづらいという事情がある。法律ではなくて、慣習や風習が支配的な力を持っている。そこでは、法律に代わって、同調圧力が支配的な力を持つ。皆がこうしているのだから、若しくは、自分がこうしているのだからお前もそうしろ、という訳だ。

 

ある地方において、コロナに感染する人がいた。するとその人の家の玄関に、真っ赤なスプレーで「コロナ」と落書きされたという話があった。誰かがコロナに感染すると、その情報がメールで拡散されるという話まである。自分はコロナに気を付けているのだから、お前もそうしろ、といことだろう。コロナに感染した人が共同体を離れざるを得なくなったという話も、少なくない。

 

そして、法律が行き届きにくい生存領域においては、セクハラやパワハラがまかり通り、家の中ではDVが発生するのである。

 

さて、この生存領域における支配的な記号は何か。それは、パロール話し言葉)だと思う。人々は他人の噂話から、翌日の天気や、物価の動向に至るまで、ペチャクチャと話し合っているに違いない。

 

次に、生存領域における「知」について考えてみよう。これは主に、師匠から弟子へ、親から子へと受け継がれているに違いない。そして、この「知」の特徴は、直接的には開示されないという原則を持っている。弟子は師匠のやり方を見て、少しずつ技術を習得するのだ。親も子供に対して体系的に「知」を伝授することはない。日々の暮らしの中で、それとなく教えているのだ。

 

さて、このように考えると、文化の所在を指摘することができる。すなわち、文化とは原始領域と生存領域に存在するのだ。そして、この2つの領域において、「知」が体系的に開示されることはないのである。

 

では、キーワードを並べてみよう。

 

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・

記号領域・・・

秩序領域・・・

喪失領域・・・

自己領域・・・