記号とは、音、光、形、色、物、人の表情、その他の要素によって構成され、対象を指し示すものであり、人の五感によって認知されるものである。
このように定義してみると、私たちが認知している全ての事柄が、記号であることになる。カントの純粋理性批判を丸暗記していたと言われるチャールズ・サンダース・パースが、その生涯を記号学に捧げた理由も、理解できない訳ではない。
ところで、「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉がある。このレトリックを借用して言えば、「記号は世につれ、世は記号につれ」と言える。記号には沢山の種類があるし、人間が注目する記号も、その時代、各領域において、変化している。原始領域においては「動物」がそれだったし、生存領域においてはパロール(話し言葉)が、そして認識領域においてはエクリチュール(書き言葉)が主要な役割を担っている。但し、それらの領域における記号と人間の関係を考えると、そこには人間の能動的な関与を見て取ることができる。例えば、記号としての動物を見た場合、そこから人間は想像力を働かすことが可能だった訳だ。言葉であれば、それは人間が主体的に発したり、書いたりすることが可能である。しかし、中には記号が人間を凌駕する、記号が主体の関与を拒絶する場合がある。
1 + 1 = ?
例えば上記の数式を見るとき、そこから私たちは何かを想像することができるだろうか。この数式に対して、私たちは何か意見を言うことができるだろうか。「私は3だと思う」と言うのは自由だが、それは間違えているに過ぎない。
このような領域を私は、「記号領域」と呼ぶことにする。
人間はまず直線を発見し、それを3本組み合わせて三角形を作る。そこから幾何学が始まり、ピタゴラスの定理が発見される。ちなみに、数式によってグラフ上の曲線を表わすことが可能なのは、広く知られている。例えば、Y=Xの二乗 という数式は、曲線のグラフに転換することができる。難しいことは分からないが、このような対応関係を発見したのはデカルトらしい。
数学に限らず物理学や化学の世界においては、記号が記号を呼び、自然科学の体系を構築しているに違いない。
歴史的な時間軸の中で、上に記した自然科学が存在する訳だが、その後、貨幣が登場すると、記号が社会に与える影響は急速に拡大する。人々は物事の価値を金銭で測ろうとするようになったし、企業会計なども数字によって管理されるようになる。一定の期間を区切って、その間の損益を認識するために「損益計算書」が作成され、特定の日(期末日)現在の資産状況を把握するために「貸借対照表」が作成される。第2次、第3次産業においては、自然科学が商品を作り、それが貨幣経済のルートに乗り、今日の私たちの暮らしを支えている。その基盤をなしているのは、数字という記号なのだ。
別の側面における今日的な状況下においても、記号領域の拡張を見ることができる。
今から30年前位だろうか。企業の経営戦略の1つとして、Corporate Identityが脚光を浴びた。これは、Identityすなわち「らしさ」を強調しろということだった。その会社の「らしさ」を目に見えるような形で表現しろ、という意味だ。いくつかの説があったのだろうが、私が記憶しているものは、次の3種類を掲げていた。
Behavior Identity
Product Identity
Visual Identity
簡単に説明しよう。「Behavior Identity」とは、企業の「らしさ」を従業員の統一的な行動で表現しろ、という意味だ。例えば、デニーズへ行くと従業員が必ず「ようこそデニーズへ」と言う。次に「Product Identity」だが、これはその企業の個性を製品に反映させろということ。そして、「Visual Identity」については、企業のロゴを統一し消費者に訴えろ、という意味である。例えば、それまでトヨタはカタカナの「トヨタ」という文字を用いていたが、このCorporate Identityの流れに沿って、現在の楕円形を組み合わせたロゴを使うようになった。
Corporate Identityがもてはやされた理由だが、当時は「商品の成熟化」を挙げる論者が多かったように思う。つまり、商品の品質は各段に向上したのであって、どの企業の製品を買っても同じだ、という状況が生まれていたのだ。その中で自社製品を購入してもらうための手法として、Corporate Identityという主張が成立していたのだ。ただ、トヨタの場合、カタカナのトヨタと表記したのでは、海外の人には分かりづらい。同社がグローバル化を進める上で、楕円形を組み合わせたロゴを作成したのは、必然だったと言っていい。
その数年後だろうか、Corporate Identityに代わって、今度はブランドという話になった。ブランドに関する体系的な理論があるのかどうか、私は知らない。ただ、私の理解としては、まず、創業者を特定し、その人をヒーローに仕立て上げる。創業の物語を作る。そして、ブランドマークと共に、それを宣伝するのである。ブランドは、西洋における販売促進の手法であって、グッチとかベンツと言えば、誰でも一定のイメージを持っているに違いない。
今にして思えば、このブランドという手法は、キリスト教などの宗教に酷似している。
キリスト・・・創業者
聖書・・・創業の物語
十字架・・・企業のロゴ
やがて、ブランディングという言葉が出回る。これは、何の変哲もないありふれた企業に対して、上記のような手法を用いて、差別化、ブランド化を図るという意味である。ここにおいて、主体(この場合は企業)を記号(ブランド)が凌駕するという関係性が成立するのである。
記号を巡る進展は、そこに留まらない。最近ではメールを凌ぐ勢いで、ラインが普及している。私は、若い人たちのライングループのお仲間に入れてもらっているが、そこで飛び交うのがラインスタンプだ。これはキャラクターがいて、それが動く訳だが、声を発するものまである。キャラクターと言えば、ゆるキャラだとか、着ぐるみだとか、マンガの主人公など、現在、全盛期を迎えているのではないか。どうも時代はキャラクターを追い求めているような気がしてならない。
私の若かりし時代は、ロックの全盛期だった。友人と話をしていても、例えば、「ギターはジミ・ヘンだろう」などと言えば、それだけで私のアイデンティティーを主張することが可能だったように思う。しかし、現代において、ロック・ミュージックのように大きなムーブメントは存在しない。すると若い人たちは、自分がキャラクターを演じることによって、自らのアイデンティティーを確立するしか、方法がなくなっているのではないだろうか。それは友人たちに自らの存在をアッピールすることであり、そうしなければ仲間たちから自分の存在を認めてもらえない。そういう状況が生じているような気がしてならない。よく地方の成人式で若者が暴れるが、それはそのようなキャラクターを演じているのではないか。ここでも、記号(キャラクター)が主体(若者本人)を凌駕している。
成人式で暴れる若者たちの映像を見ると、彼らは、強烈な外観を有している訳だ。髪は様々な色に染め、派手な着物を身にまとっている。それらの外観に対して、彼らの中身はどうだろう。直接話したことはないが、外観の割に、彼らの中身が空虚であろうことは、想像に難くない。そこで私は彼らに対して、「空っぽだなあ」と感じることになる。彼らを批判している訳ではない。今から思えば私だって、二十歳の頃は空っぽだったのである。
何故このような現象が生まれるのか。その原因は、憲法が定める平等主義にその一因があるのではないか。先の原稿に記載したように、平等主義は、例えば男女の差異すら認識するな、というところまで行っている。その他にも、肌の色、職業、年令、出身地などに基づくあらゆる差別を禁止するというのが憲法だ。その思想が、実は、現代の若者文化の根深い所に影響を及ぼしているのではないだろうか。
現役時代に私が勤めていた会社は、和風の会社だった。社員食堂では綺麗に男と女が分かれて、食事していた。その会社の経営は行き詰まり、外資に買収された。直後から、大量の外国人がやってくる。外国人たちは、当たり前のように男と女が一緒に昼食を取るのである。その習慣は、あっという間に日本人にも浸透し、男女が入り混じって昼食を取るのが当たり前になった。
今では、体罰は悪いことだと誰もが認識している。すると、親子関係も「お友達親子」などと言われるようになる。男女の識別が弱まり、最近の若い人たちをモノセックスだと言う心理学者もいる。ただ、その背景には、区別しない、識別しない、という憲法や戦後民主主義の価値観が底流にあるように思う。
ここに来て、私の憲法観に変化が生ずるのだ。
つまり、前提として、人間が何かを認識しようとするとき、人間は対象を識別し、時間を制限し、空間であればそれを仕切る必要が生ずる。テレビドラマであれば、最長でも2時間が普通だし、相撲は土俵という限られた空間の中でしか成立し得ない。
どの社会でも、いつの時代でも、人間が認識したいと欲するその重要な対象の1つに、人間がいたのは間違いない。そこで、人間は認識の対象であるところの人間を識別し始める。そこから、男女差別、人種差別などが始まるのだ。そして、憲法が持つ価値観は、それら一切の差別を禁じたのである。
私は、そのディテールにおいて、憲法に対し異議を持っているが、その底流に流れる思想や価値観は、大いに評価している。人は平等であるべきだ。強くそう思っているし、今日まで、憲法は人間が到達すべき目標地点であると思ってきた。しかし、そのような憲法が新たな問題を引き起こしているのである。それは「人間が人間を認識しづらくなった」という課題である。これは重大な課題であって、何とか、乗り越えなくてはならない。
つまり、日本国憲法というのは、到達すべき地点なのではなく、そこを経由した上で、更なる高みを目指さなければならないということに気付くのだ。
領域論/主体が巡る7つの領域
原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物
生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール
記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字
秩序領域・・・
喪失領域・・・
自己領域・・・