長い道のりを経て、とうとう私も、この永遠の問いとで言うべき論題に辿り着いた。その論題とは、「私とは何か?」という単純な設問のことである。
この話、一体どこから始めればいいのか私にもよくは分からないが、とりあえず「時間」について、記述してみることにしよう。まず、過去の時間というものがある。それは、138億年前のビッグバンまで遡る訳で、これはもう想像を絶するほど永い。確かにそれはとても永いが、しかし、昨日という日もあった訳で、その延長線上で考えれば、理解できないこともない。また、未来という時間もある。それがどれだけ続くのか、それは誰にも分からない。しかし、こちらも明日という日があって、それがずっと続くと考えれば、分からないでもない。しかし、時間にはもう1つの概念がある。それは、「現在」である。138億年も続いてきた過去という時間と、ほとんど永遠とも思える未来という時間がせめぎ合うその瞬間が、現在なのである。そして、私たちは常にこの現在という時間を生きている訳だ。これほど不思議なものはない・・・と私は思う。
そして、「私」の中には、この摩訶不思議な現在という時間に付き合っている部分がある。それを意識と呼んでもいいと思う。私たちは常に現在という時間の中で、何かを欲し、何かを恐れ、近未来に起こるであろう何かを想像しながら生きている。私たちは毎日、食欲を満たそうとしているし、例えば、地面がグラッと揺れるとそれを地震だと認識し、更に大きな揺れが来るかも知れないと想像し、怖れる訳だ。
そして、私たちは現在という時間の中で、何かをやってみようとか、何かを捨てようとか、意志することもある。私であれば、この領域論なる原稿を書いてみようとか、ロックバンドをやってみようとか、そういうことだが、意志を決定するに際しては、過去の経験などに拘束されることになる。このブログにおいて、私は、既に3千枚を優に超える原稿を掲載してきたし、それは私にとって左程、苦痛を伴うものではなかった。従って、この領域論を書き上げることができるであろうという自信があったので、始めたのである。他方、私が今からロックバンドをやれるかと言えば、それは過去の経験からして、とても無理だという結論になる。曲を書いて、バンドで練習してという作業には、膨大なエネルギーが必要なのである。そのことを経験上、私は知っているし、現在の私にそのようなエネルギーは残されていない。このように、現在を生きる意識や意志は、過去に拘束されているに違いない。
ここで理解を助けるために、一つのたとえ話をしよう。これをちなみに、「荷車を曳く人」と名付ける。
ある人が荷車を曳いているとしよう。荷車は、リヤカーと言い換えても良い。荷車には沢山の荷物が積んである。それを曳くのは、難儀だ。特に上り坂では。
短くて恐縮だが、「荷車を曳く人」は、以上である。
この話における荷車を曳いている人とは、現在の意識である。そして、荷車に乗っている重い荷物とは、現在の私を拘束する過去の遺物のことである。そして、それらの総体が、すなわち「私」なのだ。荷車に乗っている過去の遺物、それを無意識と言い換えても良い。
そもそも、「私」が「私」について考えるとは、どういうことなのだろう。主体と客体が同一なので、この仕組みを理解することは困難だと思う。しかし、「荷車を曳く人」になぞらえて、荷車を曳いている人が振り返って、荷車に積載されている重い荷物について考える、という風に考えてみればどうだろう。これで、主体と客体を分離することができる。
蛇足かも知れないが、このように考えると次のことが分かる。つまり、「荷車を曳く人」を救済するには、2つの方法があるということだ。1つには、荷物を軽くするという方法だ。これを目指すのが、1つには、宗教だと言えるのではないか。もう1つの救済方法は、荷車を曳く人自身の足腰を鍛えるという方法である。その方法の1つが、すなわち哲学である。
ちなみに、「主体」という言葉を哲学用語辞典で調べてみると「主体とは行為や意志の発動者」であると記されている。上の例で言えば、荷車を曳く、その人自身を「主体」と呼ぶことになる。
それでは、まとめてみよう。主体とは、現在を認識しようとする意識のことであって、そこには常に欲望や恐怖がある。また、主体は想像力によってあらゆる記号を認識しようと努めているに違いないのだ。主体は、何らかの行為について意志決定を下す。そして主体は、身体と共にあると思う。西洋の思想においては、身体と精神とは別だと考えるようだが、他方、東洋の思想においては、これらを同一視する傾向が強いように思う。私は、東洋思想の方が正しいと思う。意識と共に、私の体は振り向いたり、立ち上がったりするのだから。
加えて、主体を構成する重要な要素として、「言葉」を挙げることができる。これは内心を構成するのであって、発話されるとは限らない。従って、パロール(話し言葉)とは異なる。また、内心の言葉は記述される訳でもない。従って、エクリチュール(書き言葉)とも異なる。まさに、「言葉」と言う他はない。
次に、荷車に載った重い荷物であって、無意識に属する事柄を、ここでは「自己領域」と呼ぶことにしよう。そこには、膨大な知識があり、過去の経験や、経験に基づく記憶が潜んでいる。過去に失敗した経験などが、コンプレックスとして主体に影響を及ぼしている。そして、眠ると人は無意識に影響された夢を見る。その領域を更に掘り下げていくと、そこには狂気が潜んでいるに違いない。
さて、うまくできたかどうかは別として、これで7つの領域と「主体」について、定義することができた。すなわち私たちは、8つの積み木の木片を手に入れた訳だ。これを組み合わせることによって、様々な、形を作ることができるだろう。主体があって、その主体が7つの領域を巡る。これは、私たちの人生の、私たちの文明の、私たちが生きている世界のメカニズムであるはずなのだ。
<領域論/主体が巡る7つの領域>
原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物
生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール
記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字
秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級
喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失
自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気
(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉