文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その16) 領域と文学

 

<領域論/主体が巡る7つの領域>

 

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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上の一覧に記した通り、本稿では7つの領域について見てきた。これは、私が見る世界の全体図である。それぞれの領域は特徴的で、独立している。これらの領域を歴史的な時間軸に従って並べてみることも可能だろうと思うし、ある領域は他の領域の反作用として生まれたに違いない。但し、7つの領域に共通して、それらを貫く、人類が生み出したある営為の形があるのだ。その1つが、文学である。別の言い方をすれば、人類は原始領域を生み出して以来、片時も忘れることなく、言葉によって各領域を表現しようと努めてきたことになる。

 

文学と言うと、多くの人は近代以降の文字によって書かれた小説を思い浮かべることだろう。しかし、言葉によって物語を紡ぐという営為の歴史は、もっと古くから存在するのであって、ここではそれらを含め、文学と呼ぶことにする。

 

また、例えば川端康成を例に考えてみると、「眠れる美女」のように喪失領域を描いた作品がある一方、「伊豆の踊子」や「雪国」のように日本の風俗、すなわち生存領域を描写した作品も存在する。従って、以下の分類は作家単位で考えるべきではなく、あくまでも作品単位で考えるべきことを予め、確認しておきたい。

 

では、各領域と文学の類型について、検討してみよう。

 

原始領域・・・典型例として、神話を挙げることができる。無文字社会の人々も、多くの神話を持っているのであって、それらは口頭によって伝承されてきたのである。また、宗教はどこかの段階で個人崇拝へと移行する。抽象的な概念としての「神」だけでは、人々は信仰を維持することが困難なのだ。長く信仰心を維持するためには刺激が必要なのであって、もっと身近で、もっと具体的なイメージを必要とするのである。キリスト教であれば、神はその代理人とでも言うべき、イエスへと変容を遂げたし、ヒンドゥー教には予言者が出現する。日本の仏教で言えば、法然親鸞空海最澄などのビッグネームが登場し、それぞれの物語が作られる。歴史的に見ると、この辺りから「偉人伝」が生まれる。アメリカのインディアンにおいては、勇敢に白人と戦ったアパッチ族のシャーマン、ジェロニモの物語が語り継がれている。やがて、白人から差別を受け続けた黒人奴隷の間で、黒魔術が生まれる。それは、アフリカのブードゥー教などにおいて、その傾向が顕著となる。他人に不幸をもたらすことを神にお願いするのは気が引けるだろうし、神がそのような願いを聞いてくれるとも思えない。多分、そこで悪魔が誕生したのだ。また、既存の宗教が地獄を描く手段として、鬼、仁王、幽霊などの概念を作ったのだろう。いずれにせよ、人々に恐怖心を抱かせる存在が登場する訳で、それらを描いた怪談や怪奇小説が生まれたに違いない。

 

生存領域・・・語り部によって伝承された、民話が存在する。民話を子供向けにアレンジすると童話になる。生存領域においては、人々の暮らしに役立つ文化が生き永らえるのだ。童話は、子供たちに対する教育的な効果を持っているだろうし、それは、子供を寝かしつけるために語られたのかも知れない。日本の「桃太郎」は、親の男の子に対する元気に育って欲しいという願いを、それとなく表現しているのではないか。それを聞いた男の子の方も、親のそのような願いを、この童話を通じて、察してきたのではないか。ちなみに、アフリカのマサイ族においては、村はずれで老婆が子供たちに童話を語る習慣があるようだ。YouTubeで、一人の老婆を十数人の子供たちが取り囲んでいる映像を見たことがある。どの子供たちの表情も、真剣そのものだ。童話には、多くの動物が出てくる。そして、童話を通じて子供たちは動物の名前や特徴を学習するのである。

 

認識領域・・・戦後の文学は、戦争や核兵器がもたらす悲惨さを描いた。そもそも、社会契約論は宗教戦争に対する反省から生まれたのであって、戦後、日本に平和憲法がもたらされたのも、その流れに沿っている。

 

記号領域・・・自然科学は驚異的な発展を遂げているが、それに伴いSF(サイエンス・フィクション)という小説ジャンルが誕生した。また、因果関係を論理的かつ科学的に検証する推理小説も登場する。また、記号が実体を凌駕するという観点から言えば、村上春樹の作品は、このジャンルだと言えよう。そこには、大金持ちや哲学に熟達した者などが登場するが、それら登場人物の内実は、外観に比して貧弱なのである。空っぽと言っても良い。では、どこが空っぽなのかと言うと、それは主体と自己領域、すなわち「私」が空っぽなのだと思う。

 

秩序領域・・・平和主義とは反対で、戦争を賛美するような文学も存在する。戦国時代の武将を美化するものや、戦時中の国策に沿った文学もある。また、組織内部の人間模様を描くサラリーマン小説というジャンルもある。堺屋太一など。

 

喪失領域・・・前回の原稿で紹介した「眠れる美女」や「金閣寺」など。これらを純文学と称して問題はないだろう。また、マルキド・サドや谷崎潤一郎が描いた異常性愛小説も、この領域に属する。

 

自己領域・・・自らの体験を綴る私小説は、この領域を示す典型例だろう。その他にも教養小説と呼ばれるものがある。これはインテリジェンスを問うものではない。主人公が内面を見つめながら、いくつかの出来事に直面していくのだ。決して主人公は社会的な成功を収めたりはしない。しかし物語を通じて、主人公は成長を遂げるのである。日本では、「次郎物語」など。

 

では、一覧にしてみよう。

 

<領域と文学>

原始領域・・・神話、偉人伝、怪奇小説

生存領域・・・民話、童話、恋愛小説

認識領域・・・戦後文学

記号領域・・・SF、推理小説

秩序領域・・・戦記もの、サラリーマン小説

喪失領域・・・純文学、犯罪小説、異常性愛小説

自己領域・・・私小説教養小説

 

しかしながら、全ての領域を描くというスケールの大きな作品も存在する。そのような作品を描いたのは、私の知る範囲においては、ドストエフスキーだけだ。左側に領域を、右側に「罪と罰」のあらすじを書いてみよう。

 

(主 体)・・・主人公であるラスコーリニコフは、

記号領域・・・金貸しの老婆を

喪失領域・・・殺害する。

認識領域・・・罪の意識に苛まれたラスコーリニコフは、

生存領域・・・家族のために身体を売っているソーニャに、

原始領域・・・聖書を読んでもらう。

自己領域・・・ラスコーリニコフは、ソーニャの勧めに従い自首をし、

秩序領域・・・監獄に入る。

 

上の記述は、少し短絡的に過ぎるかも知れない。しかし、このような見方をすると、ドストエフスキーは私と同じように、人間世界の全体を再現して見せる、「世界を記述する」ことを目指していたように思う。

 

また、「罪と罰」と三島の「金閣寺」を比較してみると、面白い発見がある。どちらも犯罪を扱っているが、小説の構成としては、決定的な差異がある。作品のハイライトとなる犯罪行為の描写、その位置が違うのだ。罪と罰において、主人公であるラスコーリニコフは、小説の冒頭で金貸しの老婆を殺害する。対して、金閣寺の方は作品の最後で、主人公である溝口が金閣寺に火を放つ。この差は、何だろう。

 

金閣寺の場合、主人公の置かれた状況と、そこに生きる主人公のあり様が描かれる。そして、犯罪行為に向けて、主人公のメンタリティは一直線に進むのだ。それは、純化されていく、と言っても良いだろう。但し、別の言い方をすれば、主人公は、領域を超えないのである。金閣寺の主人公は喪失領域の中で生きていて、小説自体も金閣寺に放火するという犯罪行為においてそのピークを迎える訳だが、喪失領域の外に出ることがない。

 

反面、罪と罰ラスコーリニコフは、金貸しの老婆を殺害した後、考えを巡らし、様々な人々と出会い、領域を超えていくのである。これは教養小説に似ていて、主人公は各領域の間にある境界線を超えて、他の領域に移動することによって、成長するのである。この自己の成長、自己の陶冶を図るという点は、ミシェル・フーコーがその遺作「自己への配慮」の中で述べていたことと共通するのであって、多分、そのメカニズムの中に自己の救済という哲学の目標が、人生の謎を解く鍵が、隠されているに違いない。

 

作品の総合性という観点からしても、自己の成長という観点からしても、2つの作品を比較した場合、罪と罰の方に軍配を挙げざるを得ない。金閣寺は三島31才の作品であって、これを世界の文豪と比較するのは酷かも知れない。しかし、ここに三島の限界があるのではないか。普遍化して言えば、そこに日本文学の、日本が持つ文明の、限界を見て取ることができるのではないか。