文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その18) 領域と芸術

 

<主体が巡る7つの領域>

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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人間の世界には7つの領域があり、そして、各領域を代理するように、それらを分かりやすい形で示す芸術があるのだ。別の言い方をすると、7つの実体的な領域があって、それらを表象する、代理する、記号としての芸術作品がある。従って、私たちは芸術作品を通じて、人間世界に存在する7つの領域を認識することができるに違いない。

 

既に領域と文学、領域と音楽の関係については述べた。残るは美術ということになる。美術の世界は主に、2次元の絵画と、彫刻やブロンズなど3次元の分野に分かれる。但し、この3次元の世界に存在する「物」ということを考えると、その起源は祭祀に使う道具としての祭具にまで遡ることになろう。私は、楽器も祭祀に使用するために作成されたのではないかと思っており、この話を始めると祭祀から呪術、そして大量生産による「商品」までを記述する必要が生じる。よって、ここでは美術とは言わず、絵画に限定して、また、過去の原稿との重複を避けながら、まず、領域と絵画の関係について述べてみたい。

 

ゴッホから始めよう。ゴッホが描いたのは、向日葵、麦畑などの自然である。加えてゴッホは、身の回りにいる市井の人々の肖像も描いた。郵便配達夫や、ガシェ医師など。従って、ゴッホはその軸足を「生存領域」に置いていたと言える。加えてゴッホは、自画像も描いている。自ら耳を切り落とした後で、包帯でぐるぐる巻きになった自画像が有名だろうか。ゴッホは、自分の中に潜む狂気とも戦っていたのである。これは「自己領域」に該当する。

 

ゴッホと同棲生活を送っていたゴーギャンは、「想像力で描け」とゴッホに助言した。実際、ゴッホはそう試みたが、うまくはいかなかった。このゴーギャンの助言は、何を意味していたのか。それは、その後、ゴーギャンが描いた作品を見れば分かる。ゴーギャンの作品には、野生動物や呪術師、死霊などが登場する。すなわち、ゴーギャンは想像力を駆使して「原始領域」を描いたのである。このように考えると、2人の画家の相違は明白だ。

 

では、本稿において未だ説明していない、領域と絵画の関係について見てみよう。

 

認識領域・・・日本人画家の中には、広島の原爆や沖縄戦の惨状を描く画家がいる。世界的には、ピカソゲルニカが有名だろう。これは、反戦のシンボルだと言われている。

 

記号領域・・・マリリン・モンローの肖像や、トマトスープの缶詰を描いたアンディー・ウォーホルがいる。これらは、ポップアートと呼ばれている。面白い作品を描くので、当時、メディアや評論家はこぞってウォーホルにインタビューを申し入れたそうだ。斬新な芸術論を期待してのことだろう。しかし、ウォーホルからそのような話を聞くことはできなかった。多分、ウォーホルに思想などなかったに違いない。空っぽなのである。

 

秩序領域・・・記録として、若しくは英雄などを賛美する目的で描かれた戦争画がある。また、権力者の肖像画なども少なくない。

 

では、領域と絵画の関係を一覧にまとめてみよう。

 

原始領域・・・ゴーギャン

生存領域・・・ゴッホ

認識領域・・・ゲルニカ反戦のシンボル)

記号領域・・・ポップアート、アンディー・ウォーホル

秩序領域・・・戦争画、権力者の肖像

喪失領域・・・ジャクソン・ポロック

自己領域・・・自画像

 

ここまで考えると、宗教と芸術の差異について説明することができる。

 

まず祭祀があって、その様式化が進む。そして、神話と結びついたのが宗教である。それは文字によって書かれているが故に、変化することを許さない。宗教においては、その人的な集団を維持し、活性化させるために、新たな刺激を求めた。そこで、個人崇拝へと向かったのだ。神とは抽象的な概念で、大衆が認識するには遠い存在である。釈迦にも同じことが言える。もっと身近な、実在する人間を信仰の対象とする必要が生じたに違いない。すると、ここに序列が生まれる。キリスト教で言えば、神が上で、その下にイエスが位置づけられる。仏教で言えば、釈迦が最上位にいて、その下に親鸞とか最澄などの宗祖が位置づけられることになる。やがて宗教教団においては、階級が細分化されてゆく。階級は、権力を生む。このように考えると、宗教は今日においても原始領域に留まり続けているが、それは人類がやがて秩序領域を生み出す、その必然性を内包していたに違いない。

 

芸術は、宗教と同じように祭祀を起源とする。しかし、芸術は宗教とは別の道を歩んだ。芸術は宗教より、もっと人間の根源的な所に留まり続けたのだ。つまり、もっと感動的な話はないか、もっと心を癒してくれる音楽はないか、もっと魅力的な絵は描けないか。そのような人間の欲望や、悲しみや、希望に寄り添い続けてきたのが芸術なのである。確かに、戦時中の軍歌のように、芸術も権力に屈することはあった。しかし、芸術家の側から権力を欲したことは、多分、ない。すなわち、芸術は権力者のものではなく、それは大衆の中から湧き上がってくるものなのだ。