文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その19) 領域と政治

 

それぞれの領域を古いものから新しいものへ、並べ変えることはできないだろうか。そこで、次のように考えてみた。

 

喪失領域・・・かつて人間は、境界線のないカオスの中で生きていた。

生存領域・・・やがて人間は家を作り、人間らしい生活を始める。

原始領域・・・衝動を昇華し危機を克服するために祭祀を始め、それは宗教に至る。

秩序領域・・・人間は監獄、学校、会社、軍隊などを作り、戦争を始める。

認識領域・・・戦争への反省から、平和主義が誕生する。

記号領域・・・先進国同士の戦争はなくなり、人間は科学と経済に専念する。

 

この順序の方が、分かりやすくないだろうか? 誠に恐縮ながら、例の一覧の記載順も、上の通りに変更致します。但し、記載内容に変更はありません。

 

<主体が巡る7つの領域>

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

 

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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ふと思ったのだが、トランスを目指す祭祀には、人間が根源的に持っている狂気や衝動を発散させる、昇華させる目的があったのではないだろうか。部族内の秩序を保つ。そのための知恵が、祭祀を支えていたのかも知れない。

 

さて、上のように歴史的時間軸に沿って各領域を並べ変えてみると、新しい発見がある。人類には長い歴史があり、その最先端に立つ現代という時代は、とても複雑であるということ。また、今日の日本に暮らす多くの人々が立脚する領域は「記号領域」なのであって、それには歴史的な理由がある。わずか30年で世の中は一変したのだ!

 

さて、今回の原稿では、領域論の立場から、現在の日本における政治状況について、考えてみることにする。まず、政治権力の変遷について。

 

政治的な権力の起源は、「原始領域」にあった。邪馬台国で権力を持っていたのは、女性シャーマンの卑弥呼だった。そして、聖徳太子の時代になると、武力を背景として持つ豪族が登場した。その後、永い時間を掛けて権力は緩やかに組織や軍隊へと、つまり「秩序領域」へと移行したに違いない。現在は更に、「記号領域」へと移行しつつあるのだと思う。

 

原始領域 → 秩序領域 → 記号領域

 

「記号領域」と権力と言うと、ちょっとイメージしづらいかも知れない。しかし、原発がその象徴だと考えてみてはどうだろう。科学の力で、原発を造る。それは電力会社に多大な、経済的な利益をもたらす。そして原発は、巨大な利権構造を作っている。科学と経済と権力。これが現代社会における最新の権力構造なのではないか。

 

現在の日本においては、最早、戦時中のように召集令状を発行して、若者を戦場に駆り立てるようなことはできないだろう。しかし、見えにくくなりはしたが、権力は確実に存在する。

 

様々な見方があるだろうが、ここでは税金を起点に権力構造を考えてみよう。

 

政府は国民から、高額の税金を徴収している。そしてそれは、財務省の管轄となる。財務省はこれを予算として、各省庁に分配する。ここに財務省の権力が発生する。各省庁は、これを特定の産業や地方、個別の施策などに割り振る。この段階で政治が介入し、利権が生じる。地方の政治家や企業は、その分配にあずかろうと手を尽くす。補助金を有難いと思わせるためには、地方や国民を貧しくさせておく必要がある。すなわち、現在の権力にとって国民は、貧しく、政治のことなど考える暇がないほどに忙しく、そして税金を支払ってくれる存在である必要があるのだ。

 

政府と官僚組織、司法や検察、そしてマスコミまでもが共犯関係にあるに違いない。加えて、記号領域のメンタリティは、広告代理店が仕掛けるイメージ戦略に弱い。この点を理解しない限り、政権交代などあり得ないと思う。

 

従来の右翼という立場を「秩序領域」に、そして左翼を「認識領域」に当てはめてみると分かりやすいと思う。左翼がいくら正しいことを主張し、一生懸命「秩序領域」と戦ったとしても、そこに権力の中枢はないのである。

 

認識領域・・・左翼、立憲民主党

秩序領域・・・右翼、宗教団体など

記号領域・・・権力の中枢。自民党経団連など。

 

では、「記号領域」に対抗できる領域はどこなのか。それは、「生存領域」ではないか。「生存領域」が政治に対抗した例としては、百姓一揆を挙げることができる。イデオロギーではない。もうこれでは食えないという切実な現状があって、そこから立ち上がるのが「生存領域」の抵抗なのである。

 

この「生存領域」に立脚する政治勢力はと言うと、まず、「国民の生活が第一」をモットーとする小沢一郎を挙げることができる。れいわ新選組を立ち上げた山本太郎もこの立場だ。立憲民主の中にも、4割程度はこの立場を支持するメンバーがいるらしい。この勢力が拡大すれば、もしかすると政権交代が起こる可能性が出てくるのではないか。彼らには、論理的なバックグラウンドとしてのMMT(Modern Monetary Theory)があるのだから。