文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その21) 領域と自由

 

<主体が巡る7つの領域>

 

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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人間は、その置かれている環境を認識しなければ不安でたまらないし、適切な判断を下すこともできない。だから、時間を認識するために時計があり、場所を認識するために地図があるのだ。そして、認識するということは、同一性と差異を明らかにして、識別することを意味している。別の言い方をすれば、認識するということは、境界線を引くことに他ならない。そして、ここにお届けした「領域論」とは、人間の世界に境界線を引いてみる1つの試みだったのだ。

 

哲学者のオルテガは、「私は私と私の環境である。この環境をも救わないなら私をも救えない」と述べた。かつて、私はこの意見に賛同した。しかし、今は心境の変化が生じたことを認めざるを得ない。私たちが生きている現在の世界にはコロナウイルスが蔓延しているし、原発からは放射性物質が漏れ続けている。権力者の嘘や横暴が止むことはなく、困窮者は増え続けている。理不尽な出来事や犯罪が報道されない日はない。それらの全てに関わっていては、心の平静を維持することができない。

 

そこで私は、私にイクスキューズを与えることにしようと思う。まず、様々な出来事と私との距離を計測するのである。例えば、南米のアマゾンで森林伐採が続いている。このことに私は、心を痛めている。しかしこの出来事は、私から遠い所で発生しているし、そのことに私が関与できる可能性は、ほぼ皆無なのである。このように現在の私が関与できないこと、それは諦めるしかない。

 

他方、現在の私にも関与できることはある。例えば、選挙。確かに私が投票しようがしまいが、選挙の結果に及ぼす影響は微小である。しかし、私には投票権があるし、何よりも私は選挙に関与することが可能なのだ。従って、私は選挙に対し、懸命に関与していこうと思う。沢山の情報を収集し、正しい選択を心がけよう。一球入魂ならぬ、一票入魂である。

 

ここで、たとえ話「荷車を曳く人」に戻ってみよう。

 

「ある人が荷車を曳いているとしよう。荷車は、リヤカーと言い換えても良い。荷車には沢山の荷物が積んである。それを曳くのは、難儀だ。特に上り坂では。」

 

以前の原稿にも書いたが、この荷車を曳く人を救済する方法は2つだ。1つには、荷車に積んでいる荷物を軽くすること。これは、仏教的な発想だろう。仏教の修行に籠山行というのがある。何年もの間、山に籠って、世間から離れるのだ。座禅にしてもそうだが、仏教の方法は、外界を認識することを諦めてしまうところに特徴がある。そして、ひたすら自己の内面と向き合う。信者は、釈迦なり僧侶を信じ、自ら思考することを断念する。その本質は、他力本願と言って良いだろう。それで救われる人は、それでいいと思うが、私にはとても無理だ。外界を、世界を認識しなければ、不安で仕方がない。但し、荷車を軽くするために、何かを断念する、いっそのこと忘れてしまう、荷物を捨てるという方法については、賛成である。

 

他方、どこまでも認識しようと努める立場もある。例えば、66種類の記号が存在すると主張したパースなど。どちらの立場が正しいのだろうと思う訳だが、この問題を2者択一で考える必要はないのだ。つまり世界を、7つの領域を認識するよう努め、その上で、不要な荷物を捨てれば良いのではないか。それが成長するということであり、強くなる方法であり、自由に生きる秘訣なのではないか。

 

「荷車を曳く人」は、主体と自己領域の関係、すなわち「私」について述べたものだ。私にとって、この世で最も大切な人間、それは「私」なのであって、だからこそ私は「私」を大切にする必要がある。また、私たちは誰か他の人間を支配したりコントロールしたりすることはできないが、ただ1人、私自身についてはそれが可能なのである。ミシェル・フーコーが最後に述べたかったのは、そのことなのだろうと思う。

 

フーコーの「自己への配慮」から一文を引用してみよう。

 

- 自己への回帰はまた、一つの道程でもある。その道程のおかげで人は、全ての依存関係とすべての隷属関係を脱して、ついには自分自身に復帰するのである。暴風雨を避ける港のように、あるいは城壁に守られている城塞のように。(P. 86)-

 

私は、この心の中に城を築くという話に魅了されている。思えば、その城は既に存在するのだ。

 

中に入ると、そこにはとても広いロビーがある。床は大理石で、窓には美しいステンドグラスが張られている。壁には、様々な絵画が掛けられている。ゴッホの向日葵やゴーギャンの「いつお嫁に行くの」もある。正面の壁にはポロックの「ブルー・ポールズ」がある。モディリアーニの裸婦もあるし、キスリングの「女道化師」もある。もちろんウォーホルの作品など、1つもない。

 

奥に進むと、そこはライブ・ハウスになっている。昨晩は、マイルス・デイビス五重奏団が演奏したし、今夜はジミ・ヘンドリックスバンド・オブ・ジプシーズが出演予定だ。

 

上の階には、応接室がある。ソファーは革張りで、床の絨毯はペルシャから取り寄せた特注品だ。私はこの部屋にユングやパース、そしてフーコーを招いて、お互いの人生について語り合うのが好きだ。

 

この城の中には、貨幣というものがない。そもそも、数字という記号すら存在しないのだ。

 

時折、金や権力の亡者たちが尋ねてくる。しかし私は、そのような者を決して城内に入れてはならないと、門番たちに強く言い渡している。この城は、いつだって私が帰っていく唯一の場所なのだから。

 

「領域論」おわり