文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化系のコロナ論

 

いつ終わるとも知れぬコロナとの戦い。医療現場は疲弊し、一般国民のメンタルも限界に近づきつつある。日本における死者数は1万人を超えたが、これは中国の死者数よりも多い。既に、台湾、ニュージーランド、オーストラリアなどの島国においてコロナの問題は終息し、イスラエル、英国、米国などのワクチン大国においては、希望が見え始めている。東アジアにおいては日本の1人負けで、それは今後の経済復興段階においても暗い影を落とすに違いない。

 

そもそもリスクマネジメントを行う際には、複数の手立てを講じておく必要がある訳だが、PCR検査の拡充を拒否し、水際対策を徹底せず、医療体制の整備を怠ってきた日本に残された手立ては、最早、ワクチンしかない。万一、このワクチンがインド由来の2重変異株に対抗し得なかった場合のことを考えると、ぞっとすると言う他はない。

 

コロナ禍を概観してみると、それはまず人間の身体における現象として認識される。それが統計的な処理などが加えられ、情報として扱われる。この情報は、例えば、数字によって表現される。感染者数、死亡者数、陽性率などがそれだ。この数字による情報は、巷に溢れかえっている。それはもう、充分なのだ。また、政府やメディアは断片的な情報も多く提供している。バーベキューによっても感染するとか、お札にもウイルスは付着しているなどというもの。

 

もちろん、情報は大切だ。しかし、情報から何を読み取るのか、情報を分析すると何が分かるのか、という点になると、日本の現状はお粗末と言う他はない。情報を吟味することによって、原理を発見するべきなのだ。例えば、コロナウイルスはどのようなメカニズムで感染するのか、ということ。この点、従来の説明は接触感染と飛沫感染が中心的なものだった。しかし、最近発表された論文によると空気感染の方が、はるかにリスクが高いとのこと。

 

そして、最近の主なクラスター発生場所は、介護施設、病院、職場、学校などである。空気感染が主要な感染ルートだと想定すると、これらクラスターの発生場所との関連にも、納得がいく。人が声を発し、充分な換気が困難で、その場所に長時間、人が留まるのである。従って、これらの場所における対策こそが重要なのではないか。現在、政府が取り組んでいる対策のポイントは飲食店に対するものだが、飲食店におけるクラスターの発生率は、とても低いとの報告がある。

 

ある程度、原理が見えてきたら、そこからどのような対策を講ずるべきなのか、論理的な帰結を導き出さなければならない。コロナの例で言えば、感染の原理は、接触感染、飛沫感染、空気感染の3種類だとして、それぞれの対策を設定する必要があるのだ。しかし、政府やメディアはそのような説明をせず、「夜の街」が悪いと言い、飲食店を目の敵にし、最近では路上飲みをする若者たちを敵視している。そんな緊急事態宣言を何度繰り返したとしても、コロナ禍は終息しない。リスクマネジメントの用語の中に「リスク・フォーカス」というものがある。これは、リスクを直視し、そのリスクに焦点を絞って対策を講じろ、というものだ。その観点から言えば、対策はクラスターの発生場所、すなわち介護施設医療機関、職場、学校などに集中すべきなのである。最低限、これらの場所に行かざるを得ない人々に対しては、毎週でもPCR検査を実施すべきだし、その費用は国が負担すべきだ。

 

このように、文化系の私としては、政府の対応や大手メディアの報道に対し、失望している。

 

コロナ禍に関する政府の対策が何故かくもお粗末なのか、その権力構造をよく説明している人に、ジャーナリストの佐藤章氏がいる。佐藤氏は、ほぼ毎日、一月万冊というYouTube番組に出演している。昨晩の番組のリンクを以下に貼っておこう。まだの人は、是非、ご視聴いただきたい。

 

一月万冊 佐藤章氏

https://www.youtube.com/watch?v=BOch7T-mB3c

 

ところで権力者たちは、何が何でも五輪を開催しようと躍起になっている。そして、五輪を開催するためには、コロナを終息させる必要がある。当然のことだ。しかし、日本政府はコロナ対策に懸命に取り組んでいるとは思えない。これは、驚くべき事実だ。この点を少し、考えてみたい。

 

まず、与党の政治家はコロナに興味がない、という説がある。しかし、コロナの成り行きは、政治家にとっては選挙の得票率に直結するものなので、興味は持っているに違いない。

 

次に、与党の政治家は、コロナを意図的に放置しているという説もある。その証拠にコロナ禍に乗じて、火事場泥棒的な事柄を次々に決定しているというのだ。確かに、福島第一原発における汚染水の海洋放出、国民投票法案の採決などが、推進されている。しかし、何が何でも五輪を開催したいと考えている与党の政治家が、意図的にコロナ禍を放置しているとも考えにくい。

 

そこで、第三の説を提唱したくなる。つまり、権力者たちは、自らの属する利権集団にとっての利益のみを追求し、国家の利益、国民全体の生命や健康のことについては配慮していない可能性がある、ということなのだ。そして政府は、それら利権集団を統率する能力を失いつつあるのではないか。

 

厚労省、医系技官、感染研などは利権集団としての「感染症ムラ」を構成している。この点は、前記の佐藤章氏の説明が詳しい。彼らはひたすらPCR検査を抑制し、予算の取得や天下り先の確保に躍起となっている。だから、コロナ対策はうまくいかないのだ。

 

原子力ムラ」の住民たちは、コロナ禍を機に汚染水の海洋放出を押し進めようとしている。

 

「五輪貴族」たちは五輪の開催に躍起となっている。もちろん、そこにも利権が絡んでいる。電通パソナは中抜きを目論み、背後には「ぼったくり男爵」と呼ばれるバッハ会長がいる。

 

ついでに財務省はコロナ後を睨み、増税を仕掛けてくる可能性がある。

 

だから、政策の整合性は取れないのである。日本という国家を一人の人格として見た場合、この人物は多重人格であると言わざるを得ない。また、日本をクルマに例えてみると、それぞれの部品は、結構、優秀だと言えよう。タイヤは高性能だし、見掛けだって悪くない。しかし、このクルマにはハンドルがない。誰かがクルマを右に行かせようとしても、このクルマはそう簡単に操作できないのだ。複数の利権集団がひたすら「経路依存性」に基づき、直進を続けるのである。

 

日本という国家の最大の危機が、ここにあるのではないか。最早、総理大臣ですら、この国を統治することができないのではないか。

 

何故、世界的に見ても稀だと思われるこのような現象が、日本で起きてしまったのか。それは多分、政治家、エリート官僚、大衆などの多くの人々から、経験の多様性が失われてしまったことに原因があるのではないか。多様な経験が、人間の想像力を育むのだ。多様な経験を積まないと、人間の想像力は育たない。実際、誰かに殴られた経験のある人であれば、人間が殴られたときの痛みを想像することができる。貧困を経験した人であれば、たとえその人が貧困から脱した後であっても、貧困の過酷さを想像することができる。そして、想像力があれば、そこから論理を組み立てることができるのだ。

 

日本の政治家の多くは、2世、3世である。子供の頃から政治の世界ばかりを見てきた人が、多様な経験を積んでいるとは考えにくい。エリート官僚も同じである。子供の頃からあまり遊ばず、塾に通っていたのでは、想像力は育たない。大衆にも同じことが言える。生まれ育った場所で職に就き、単調な仕事を日々繰り返し、テレビばかり見ていては、想像力を働かせることは困難だろう。このように考えると、権力者と大衆の共謀関係の謎を解くことができる。彼らは、多様な経験を積んでいない。だから、想像力が働かない。想像力がないので、論理的に思考することが困難なのだ。このようにして、権力者、エリート、大衆は、同じパターンに陥っているのである。

 

(想像力と論理的な思考との関係については、パースのアブダクションに基に考えている。このブログでは既に何度か述べたので、ここでは繰り返さない。)

 

現時点での情報によれば、どうやら五輪は開催する方向のようだ。そこで何が起こるのか、コロナ禍はどうなるのか、私たちは、今こそ学ぶべきなのだ。そうでなければ、それこそ次の世代に申し訳ない、と私は思う。