文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

生命力の衰退

 

ミシェル・フーコーの遺作「自己への配慮」の中に、こんな一節がある。

 

- 驢馬を棒切れで打つことは、人々を治める仕方ではない。何が役立つかを、われわれに明らかにしつつ、われわれを理性の持ち主として治めよ、そうすれば、われわれは従うであろう。何が有害であるかを明らかにしてくれ、そうすれば、われわれはそれから遠ざかるだろう。きみのような人柄でありたいと、われわれが熱心に望むように努めてくれ(中略) これをなすべし、これはなすべからず、そうでなければ牢獄にぶちこむぞ、これでは理性ある人々を治めるやり方ではない。 (P.123)-

 

これは古代ギリシャの哲学者、エピクテトスの言葉である。このような言葉に接すると、国も時代も異なるが、私は、現代の日本に思い至るのである。

 

私たちは、驢馬のように打たれていないだろうか?

 

私たちは、理性の持ち主として、充分な説明を受けているだろうか?

 

日本の総理大臣は、私たちがそのような人になりたいと望むような人格を備えているだろうか?

 

私たちは、ただ、これをしろ、あれはするなと言われていないだろうか?

 

ところで、政治学界隈で使われている用語に、実は同じような意味を持っているものが存在することに気づいた。以下に列記してみよう。

 

反知性主義・・・知的権威やエリートに対し懐疑的な立場をとる。

 

ルサンチマン・・・弱者が強者に対して抱く恨み、妬み、嫉み。

 

パターナリズム・・・強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入、干渉、支援すること。

 

上記の用語は、いずれも大衆の心理を表わしている。つまり、大衆の心の中には知的権威に対する強烈な反感があり、嫉妬があり、そして大衆は上から目線で意見されることを極端に嫌うのである。これらの心理的な傾向を総称して、ここでは反知性主義と呼ぶことにするが、政権側はこれを利用して愚民政策を推進しているに違いない。知性など持つ必要はない、テレビを見てスポーツを楽しんでいればいいのだという政策を推進することによって、大衆は洗脳されていく。

 

では、知的権威を尊重する知性主義が正しいかと言えば、そうとも言えない。私だって、学歴や弁護士資格などをひけらかす人には反感を覚えるし、現在、コロナ対策に関して政府に助言している分科会のメンバーにだって、嫌悪感を覚える。彼らは、PCR検査を拡充する必要はないと主張した感染症ムラの住民たちなのだ。

 

最近の世論調査の結果で、国民の多くがスガ総理は嫌いだが立憲の枝野はもっと嫌だ、というものがあった。さもありなん、である。

 

政党支持率に関する世論調査の結果は、調査機関次第で大きなバラつきがあるものだが、1つ共通しているのは、最大多数を占めるのは常に「支持政党なし」なのである。知性の感じられない自民党は嫌だが、上から目線で物を言う立憲はもっと嫌いだ、ということではないか。こんな国が、コロナに勝てるはずがない。

 

いや、そもそも日本という国家は存在しているのだろうか?

 

確かに私たちの国には、日本という立派な名前がついている。国土もあるし、主権者である国民も1億2千万人ほど暮らしている。しかし、この国に本当の政府はあるのだろうか。本当の政府とは、国民全体の利益を追求する国民の代表者である。もしこの国に本当の政府が存在すれば、オリンピックを強行したりはしないのではないか。コロナの問題だって、PCR検査を拡大し、無症状の感染者を隔離したはずではないのか。水際対策だって、現在のように精度の低い抗原検査ではなく、PCR検査を実施したのではないか。そして国民には、せめて他国並みの経済補償を行ったはずではないのか。

 

結局、民主主義を基盤とする強い国家を成立させるための条件は、主権者たる国民の生命力にあるのではないか。何がなんでも生きたいと願い、行動すること。そのような強い生命力があればこそ、人間は思考するに違いないのだ。そのような生命力の延長線上に、たった一度しかない人生を精一杯生きようとする活力が生まれるのだ。

 

最近、私は高齢者の仲間入りを果たした。しかし、まだ生きたいと思っている。コロナなんかで死にたくはないのだ。そう思うから、コロナの問題に関心を持つ訳だ。もちろん、放射能で死ぬのも嫌だ。だから、原発には反対なのだ。私が思考する原動力、それは私の生命力そのものだと言っていい。このように個人の生命力から出発すると、それは国家に至るのである。逆もまた真なのであって、つまり、民主的で強い国家があれば、その国の住民たちの認識能力は強化され、生命力も強化される。このように「民主的で強い国」と「国民の生命力」は相関関係にあるに違いない。

 

今、日本人の生命力は衰退しつつある。

 

生命力の前で、右も左も関係はない。知的権威を振りかざす知性主義も、それに嫌悪する反知性主義も正しくはない。生き延びようとする意志、その中にこそ正義が宿るのだ。