文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その2)

名前だけなら、中学生でも知っているであろうソクラテス。私も、軽い気持ちでこの原稿に着手した訳だが、それは誤りだった。もちろん、ソクラテスの思想を現代人である私たちがそのままの形で受け入れることは困難だ。しかしその思想には、混迷を極める現代文明を考えるために必要なヒントが隠されている。

 

ミシェル・フーコーは、若き日にその著書「言葉と物」において、エピステーメーについて述べた。これは、ある時代のある社会が共有している科学的知見、常識、共通する価値観などを差す。しかし、晩年のフーコーは、遺作となる性の歴史シリーズにおいて、ギリシャ哲学へと向かう。そして、そこにおいては、人間にとって普遍的な何かが語られている。例えば性の歴史第1巻のタイトルは「知への意志」であり、これは俗に「無知の知」として知られているソクラテスの思想を想起させる。また、第3巻のタイトル「自己への配慮」は、明らかにソクラテスの「魂への配慮」と呼ばれる思想を反映したものである。

 

結局、人間の社会には変化し続けるエピステーメーがあって、それとは別に、不変の真理があるのではないか。フーコーが最終的に真理の存在をどう考えていたのか、私はそれを知らない。しかし、真理は存在する、と私は思う。少なくとも、真理なるものが存在するのだと信じて考え続けること、知への意志を持ち続けること、それが重要であると言えば、フーコーも反対はしないだろう。

 

では、真理はどこに存在するのだろう。国家か、中間集団か、個人か。それは、個人の心の中に存在するのではないだろうか。人間が集まって集団を形成すると、国家であろうと中間集団であろうと、そこには必ず権力関係が生まれる。そしてこの権力関係が、人間集団を狂わせるのだ。先の戦争もそうだったし、現在、日本はコロナ禍の最中であるにも関わらず、五輪に突き進もうとしている。いつの時代でも、人間集団は狂気に充ちている。

 

例えば、アメリカという国家は、戦争を繰り返してきた。しかし、戦場から帰還した兵士たちの多くは、永くPTSDに苦しめられていると聞く。どちらが正しいのか。戦争を行う国家なのか、戦争を忌避しようとする個々の兵士の心なのか。

 

思えば、思想や文学なども、その筆者や作者は、ほとんどの場合、個人なのである。個人が自分の心と向き合うところから、それらの歴史が始まり、その営みは今日も続いている。

 

心の奥底にある何か、それを魂と呼ぶならば、真理とは魂の中に存在しているに違いないのだ。そのことを差して、ソクラテスは自己の魂に配慮せよ、と述べたのだろう。