文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その5) 希望としてのエクリチュール

 

それにしても、酷い世の中になった。コロナウイルスが蔓延しているからではない。疫病の流行は、何も、コロナが初めてのことではない。そうではなくて、政府の対策がことごとく失敗していることの方が、私にしてみれば、余程危機的だと思えるのだ。そもそもコロナの感染メカニズムは、飛沫感染ではなく、空気感染だと考えるのが妥当なのだ。従って対策の主眼を飲食店(=飛沫感染)に置くのではなく、職場や学校の換気をターゲットにすべきだと思う。

 

また、コロナ対策における最重要項目がワクチンの接種にあることに、私は、反対していない。実際、65才の私は、既に2度のワクチン接種を完了している。しかし、何らかの事情でワクチン接種を拒否する人も少なくない。アレルギー体質だとか、既往症だとか、年令だとか、中には宗教上の理由による場合だってある。それらの人々にワクチン接種を強要することはできない。どうだろう。他の先進国においても、ワクチンの接種率は、概ね、7割程度が上限となっていて、それ以上は増えないのではないか。そうしてみるとコロナ対策は、ワクチンのみに頼るのではなく、PCR検査と隔離、下水道からのウイルス検出など、複数の方策を総合的に講じていくべきことになる。

 

しかし、日本の政府と御用学者たちは、一向に対策を講じようとしない。マスコミは何も追求せず、オリンピックなどという利権にまみれた娯楽を優先しようとしている。

 

そもそも私は、スポーツが嫌いだ。いくら身体を鍛えて飛んだり跳ねたりしたところで、その人の魂が磨かれることはない。そんな暇があったら「魂のこと」に専念すべきなのだ。それがソクラテスの思想である。

 

かつて私は、人間を以下の4種類に分類するという説を書いた。

 

・権力者

・大衆

・芸術家

・単独者

 

それはそれである種の正しさを持っていると思うが、私は今一度、オルテガの「大衆の反逆」を思い出すのだ。オルテガの説によれば、かつて西洋社会においては、それなりに立派なことをした人が貴族となり、社会を統治していたのである。そこで終われば良かったのだが、何故か、貴族という身分は世襲によって継承されたのである。そして、取り立てて立派なことをしたことのない2世、3世の貴族が、社会を統治するようになった。この「取り立てて立派なことをしたことのない人」をオルテガは、大衆と呼んだ。そして、この大衆が権力を持つに至った現象を「反逆」と言ったのである。

 

オルテガの主張は、現代の日本にも当てはまるだろう。日本の権力者とは「権力を持った大衆」のことなのである。そして、権力を持たない大衆が権力者を支えていると考えれば、辻褄が合う。人間誰しも、自分には理解できない他人を嫌う。そして、自分に似た者を支持するのである。こうして、大衆が支持する大衆による支配構造が完成されるのだ。中学生並みの言語能力しか持たない男が総理大臣になり、官僚はすぐにばれるような嘘をつき、メディアの人間は何事に対しても疑問を持たないのである。

 

ソクラテスの時代に話を戻そう。フーコーの「性の歴史」によれば、古代ギリシャにおいては、「若者愛」という制度が確立されていた。これは、成人男性と未成年男子との間における同性愛を差す。実は、この奇妙な関係と哲学との間には、密接な関連があるのだ。すなわち、男子はある程度の年令に達し、誰かから何かを学びたいと思うと、師匠の元へと弟子入りするのである。そしてこの弟子入りが、すなわち「若者愛」という形を取るのである。師匠と性的な関係を持ち、濃密な時間を過ごす訳だが、その間に様々な教育を受けるのである。

 

そうしてみると、気になるのはソクラテスとその弟子、プラトンとの関係だ。プラトンソクラテスに弟子入りした訳だが、その際の年令にはいくつかの説がある。二十歳だったという説もあれば、16才だったという説もある。ここから先は私の想像だが、それは多分、16才だったのだろう。そして、ソクラテスプラトンは、「若者愛」の関係にあったのではないか。ちなみにアリストテレスも、16才のときにプラトンに弟子入りしたらしい。こちらも、多分、そういう関係にあったものと推測される。

 

また、ソクラテスは生涯を通じて、一冊の本も書かなかったのである。その理由についても諸説あるのだろうが、上記の「若者愛」との関連で考える必要があるのではないか。ソクラテスには多くの弟子がいたし、広場に出かけては誰かれとなく話しかけて議論をしたそうだ。すなわち、ソクラテスは徹底してパロール話し言葉)を尊重したのである。

 

そして、ソクラテスの言動を今日、私たちが知ることができるのは、プラトンの功績による。ソクラテスの死にショックを受けたプラトンは、ソクラテスの思想をとにかく書き留めたのである。ソクラテスの思想を広く社会に伝えたい、後世に伝えたいと考えたプラトンは、膨大な著作を残したのである。こちらは、エクリチュール(書き言葉)に注力したと言える。

 

このようにパロールエクリチュールの問題は、古代ギリシャの時代にまで遡るのである。

 

ちなみに最近の文献によれば、パロールは音声言語、エクリチュールは文字言語と訳すらしい。確かにこちらの方が正確だと思うので、私も今後は、こちらを採用することにしよう。

 

ソクラテス ・・・ パロール ・・・・・・ 音声言語

プラトン ・・・・ エクリチュール ・・・ 文字言語

 

西洋の社会においては、永い間、パロールの方がメインでエクリチュールは補助的な役割しか果たさないと考えられてきた。これに異議を唱えたのはポスト構造主義ジャック・デリダである。私は、デリダの思想を勉強したことがないし、デリダはどうも肌に合わない。(デリダフーコーを批判した経緯があり、フーコーを支持している私としては、どうもいけ好かないのである。)

 

デリダはさて置き、私なりに思うところがあるので、このパロールエクリチュールの問題について、述べてみたい。

 

結論から言おう。私は、エクリチュールこそが大切なのであって、そこにこそ希望があると考えている。

 

そもそも現代日本において「若者愛」という習慣はないし、そんな制度によって何かを誰かから学びたいとは思えない。この「若者愛」による思想の伝承が成立する一つの要因は、年令差である。経験の少ない若者であればこそ、師匠の教えを素直に聞いたのではないか。それが同年代ともなれば、当然、意見の相違が生じるに違いない。実際、広場でソクラテスに議論を吹っ掛けられた多くの人々は、不愉快な思いをしたのである。

 

パロールは必ず、それを聞く相手を前提としている。相手がいるから、その相手に向けて話すのである。そして多くの場合、何かを話すという行為は、相手方の共感なり同意を求める。この行為は必然的に、パターナリズム(上から目線)、同調圧力、マウンティングなどの弊害を伴うことになる。人間は千差万別、十人十色なので、同意に至るなどということは、まず、ないのである。実際ソクラテスは、人々から嫌われ、死刑宣告を受けるに至った。

 

他方、エクリチュールは、特段の読み手を想定せずに書かれる場合も少なくない。例えば、現在、私はこの原稿を書いている訳だが、どこのどなたにお読みいただけるのか、皆目、分からないのである。また、読者の側からすれば、この原稿が気に入らなければ、そもそも読まなければいいのである。つまり、エクリチュールというコミュニケーション手段においては、先に述べたパターナリズム等の弊害を回避することが可能なのだ。そもそも、エクリチュールがなければ、私たちはフーコーソクラテスの思想に触れることすらできない。エクリチュールは、時空を超える。

 

そもそも、パロールは身体から発せられる声のことで、抽象的な意味での身体性から離れることは難しい。身体があって、音声があって、それによって共感や同意を求めるということは、そこに権力関係の萌芽を見て取ることができる。

 

私も、身体が大切でないとは言わない。しかし、身体よりも大切な魂というものがある。では、その魂について何かを伝える、魂について考える方策としては、何がいいのか。そう考えると、自ずとエクリチュールの重要性が明らかになる。今日まで、いつの時代でも、どこの国でも、魂とは個別的であって、反権力なのだ。

 

身体 ・・・ パロール ・・・・・・ 権力

魂  ・・・ エクリチュール ・・・ 反権力

 

人は、人から学ぶのだ。自らの魂を成長させるということは、先人たちの魂について学ぶことに他ならない。そして、その際に用いるべき記号、それがエクリチュールなのである。自己の魂に配慮するということ、それはエクリチュールと共に生きるということなのだ。無意識から意識へ、狂気から理性へと歩みを進めること。それはエクリチュールによってのみ、可能となる。そこに、大衆に支配された現代社会を改変していくための鍵がある。