文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その7) 魂と知

 

まず、前回の原稿における私のミステイクについて、訂正すると共にお詫び申し上げなくてはならない。前回の原稿で私は、「ソクラテスの弁明」について、1回目の採決の後で、2回目の採決の直前に弁明がなされたのではないかと述べたが、これはとんでもない誤りだった。「ソクラテスの弁明」は3部構成になっていて、各々、発言がなされたタイミングは異なる。

 

ちなみに「ソクラテスの弁明」(“弁明”)に関しては、過去に基準となる文献があって、そこで用いられた各部分を参照するための管理番号が振られているので、これに従って簡単に概要をまとめてみたい。私が参照しているのは30年以上も前の角川文庫だが、ここで用いられている段落ごとに振られた漢数字(“段落番号”)を参考までに記載することとする。裁判の進行と発言の順序は、次の通りである。

 

陪審員の選任手続・・・くじ引きにより500人の陪審員を選任する。(但し、偶数人数だと賛否が同数になる可能性がある。そのためか、陪審員の人数は501人だったとする説もある。)

 

原告側の冒頭陳述・・・原告側が、裁判を提起した理由について陳述する。

 

ソクラテスの発言・・・これが弁明の第1部である。(段落番号一番~二十四番)

 

有罪か無罪かに関する採決・・・有罪:265票 無罪:235票

(段落番号二五において、ソクラテス自身が、投票結果は30票差だったと述べている。そこから逆算すると上記の投票数となる。)

 

原告側の求刑・・・上記の経緯でまず、有罪であることが確定した。次に罰の重さ、すなわち量刑の議論に移る。確証はないが、このタイミングで原告側から死刑を求める旨の発言があったものと思われる。

 

ソクラテスの発言・・・これが弁明の第2部である。(段落番号二十五番~二十八番)原告側が死刑を要求したのに対し、ソクラテスは自ら罰金刑(30ムナ)が妥当であるとの主張を行う。

 

量刑に関する採決・・・死刑に賛成:360票 罰金刑に賛成:140票

 

ソクラテスの発言・・・これが弁明の第3部である。(段落番号二十九番~三十三番)ソクラテスはまず、「有罪と評決を下した陪審員たち」に語りかける。次に、「無罪と評決を下した陪審員たち」に、最後に「陪審員たち全員」に対して語りかける。(翻訳上は「裁判官」と訳されているが、判決を下す裁判官とは異なるので、投票権を持つ「陪審員」とした方が正確であると思う。昨今の日本における刑事訴訟の「裁判員」と同じ意味である。)

 

ところで、学者でこんなことを言う人は少ないと思うのだが、私は、ソクラテスの思想や人生の基盤となった当時の社会システムが「シャーマニズム」にあったことを指摘したい。シャーマニズムについては、このブログで既に述べて来たことなので詳細は述べないが、簡単に言うとそれは普遍的な古代社会の制度であり、経典を持たない原始宗教のことである。日本で言うと邪馬台国卑弥呼はシャーマンだったし、天皇制の起源もシャーマニズムにあると私は推測している。シャーマニズムは当初、シベリヤ地方で確認されたが、その後、世界各地に普及していたことが確認されている。

 

話をソクラテスに戻そう。彼の思索は、ある出来事を契機としている。まず、彼の友人のカイレポンという男が、デルポイという場所にある神殿を訪れたのである。そこで、神殿の巫女さんに尋ねた。(デルポイについては、聖域の名称である、神託所の名称である、都市国家の名称である、などの説がある。)

 

ソクラテス以上の知者はいるか?」

 

すると巫女さんは、多分、祈祷を行った後、次のように答えたのである。

 

ソクラテス以上の知者は、誰もいない」

 

これが神託である。言わば神のお告げだった訳だ。そして、自らを知者だと考えていなかったソクラテスに疑問が生ずる。そこで、自分以上の知者を発見できれば、神託が誤りであることを証明できると考えたソクラテスは、著名な知識人などを訪ねては、問答を繰り返したのである。

 

もし、巫女さんが別のことを言っていれば、ソクラテスは哲学者になっていなかっただろうし、それはすなわち西洋哲学があのような形で生まれていなかった可能性を示唆している。

 

また、ソクラテス自身、ダイモニアの声を聞いていた点も、見逃せない。ダイモニアについて、ソクラテスは弁明の中で、次のように述べている。

 

「ダイモンたちをわれわれは神々か、あるいは神々の子供たちと信じてはいないか」

 

ソクラテスをはじめアテナイの人々はゼウスやアポロン(ゼウスの息子)などの神々を信仰していて、その子供、神々と人間の中間的な存在として、ダイモニアを位置づけることが可能なのだ。

 

ゼウスなどの神々 - ダイモニア - ソクラテス

 

このような位置関係を推定することができる。そして、ソクラテスはこのダイモニアの声を子供の頃から頻繁に聞いていたのである。またその際、ソクラテスは、「一種の忘我状態になってしまう。それは恍惚境に入ったように見える」とのことである。(出典:ソクラテス /中野幸次著/清水書院/82頁) この状態はシャーマニズムにおける「トランス状態」と酷似している。いや、同じではないか。すなわちソクラテス自身、シャーマンだったとも言えるのだ。

 

また、ソクラテスは詩人たちに対し、次のように述べている。

 

「何でも彼らの作るものは知恵によってではなく、予言者や神巫(かんなぎ)のように、自然の生まれつきによって、あるいは神がかりになって作るのだということを。」(段落番号七)

 

つまり、詩人たちはトランス状態になって、詩を書いていたことが示唆されているのだ。また、弁明とは離れるが、ソクラテスの友人、エウチュプロンは予言者だった。(プラトンは「エウチュプロン」というタイトルの作品を残している。)

 

すなわち、ソクラテスが生きていた古代ギリシャには、神殿があり、そこに巫女さんがいて、詩人は神がかりの状態になって詩を書き、予言者たちがいたのである。これはもう、完全にシャーマニズムの世界だと言える。

 

すると、ソクラテスが述べた「魂」の意味は、私たち日本人がイメージしているものと大差のないことが分かる。シャーマンがトランス状態に入る際には、脱魂型と憑依型の2種類がある。脱魂型というのは、魂が抜けてしまう状態のこと。憑依型は、何か別の魂がシャーマンに取り付いてしまうこと。日本で言えば、キツネ憑きなどがその例。つまり、魂というのは人間の生命の源のようなものなのである。実際、参考文献(はじめてのプラトン/中畑正志/講談社現代新書)にも、次の記述がある。

 

- 「魂」という言葉は、生きることの源、あるいは生の原理という意味をその芯にもっていた。(P. 91)-

 

すなわち、人は誰しも魂を持っているのであって、これを失うことは死を意味する。そうしてみるとソクラテスの自己の「魂に配慮せよ」という主張は、全ての生きている人間に対するメッセージであることが分かる。なお、魂に類似する言葉として、ソクラテスは「徳」とか「正義」という言葉を用いている。便宜上、ソクラテスのこの主張を「第1ステップ」と記すことにしよう。

 

ソクラテスの主張 第1ステップ

 魂に配慮せよ

 魂 - 徳 - 正義

 

ソクラテスはもう1つ、重要なことを主張している。一般に「無知の知」と呼ばれるものである。但し、これは専門家の間でも誤訳であり「不知の自覚」とすべきだとの意見があり、今後は、こちらを採用することにしよう。「不知の自覚」とは、自らが不知である、知らないんだということを自覚することが大切だという主張である。では、「知」とは何かという問題がある訳だ。この点、ソクラテスは神の知と人間の知の関係について、弁明の中で次のように述べている。(段落番号9)

 

- 実際のところは、神様が知者であって、この御神託でもって言おうとしていられることは次のことらしい、つまり人間として許された知恵の値打ちはごく些細なもの、いや、全く取るに足らぬものであるということを。-

 

上に引用した部分は、いわゆる「人間並みの知」について述べた箇所である。まず、確認しておきたいのは、前述の通り「魂」とは、生きる人間誰しもが持っているものであって、これに対して「知」とは、人間がほとんど持っていないものであるということである。よって、魂と知とは、本質的に異なるのである。ということは、自己の「魂に配慮せよ」という主張と、この「不知の自覚」という主張は、異なるということだ。

 

ちなみに、ソクラテスは人間の知を「全く取るに足らぬもの」であると言ってはいるが、それでも人間はそれを追い求めるべきだと主張している。ここに論理的な背理が見られる訳だが、この点は、「決して得られはしないが、それでも追い求めることが重要なのであって、それは人間に課せられた永遠の挑戦なのだ」という風に私は理解している。

 

ソクラテスデルポイの神託を聞いた後、言わば「知ったかぶり」をしている人々を訪ね、質問を浴びせている。それは、政治家であり、詩人であり、手工業者たちであった。してみると、この「不知の自覚」の方が、「魂への配慮」よりも少し難易度が高いのである。従って、便宜上、これを第2ステップと呼ぶことにしよう。なお、ソクラテスは「知」に類似する言葉として、英知、真理という言葉も用いている。

 

第2ステップ

 不知の自覚

 知 - 英知 - 真理

 

弁明の中で語られたソクラテスの思想の中核は、上記の2点にある。それらの意味は異なるが、無関係という訳ではない。私は段階が異なるという考え方を採ったが、知や真理の方が大きな概念であって、その一部が魂であると解釈することもできるだろう。また、ソクラテスは第1段階の「魂への配慮」は全ての人々に求め、第2段階の「不知の自覚」は知識人や権力者に要求したのではないだろうか。

 

さて、本稿を締め括るにあたり、読者諸兄には、「弁明」における有名なあの一文を読み返していただきたい。そこに2つの意味があることは、ご理解いただけるであろう。そして、人間にとっての永遠の挑戦、知への意志を持てというソクラテスの魂をそこに見て取ることができるだろう。

 

- はばかりながら、君、君は知恵と力とにかけては最も優れていて、最も評判のよい国、アテナイの民でありながら、金銭のことでは、どうすればできるだけたくさん君の手に入るかということに、また評判や栄誉のことに心掛けるのに、英知や真理のことに、また魂のことでは、それがどうすればいちばん優れたものになるかということに心掛けもせず、工夫もしないのが恥ずかしくはないか -