文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その8) 思想を持つということ

 

ソクラテスが登場する以前から、自然哲学と呼ばれる思想の試みがなされていたのであって、これはその後の自然科学へとつながったに違いない。ソクラテスもそれを学ぶが、やがて、決別する。つまり、哲学と自然科学の緊張関係は、その起源から始まっていたことになる。ソクラテスが到達したその後の思想とは、正義(魂への配慮)と真理(不知の自覚)の追求だった訳だが、自然科学はある種の真理を追究することはできたとしても、決して人間社会における正義を思考することはできない。これは重要な問題なのであって、例えばこう述べることができる。核兵器を開発したのは科学者であって、哲学者ではない。ソクラテスが自然科学的な方向を否定し、哲学へと向かった理由の1つが、そこにあるような気がする。そして、この哲学と自然科学との緊張関係は、2400年後の現代社会にまで持ち越されているのだ。

 

また、ソクラテスは哲学と政治の関係についても言及している。「ソクラテスの弁明」に次の記述がある。(段落番号19)

 

- 諸君に対してにせよ、その他の人民大衆に対してにせよ、律儀に反対して国のうちに多くの不正なことや違法なことが起こらないように妨げる人で、命を全うできる者は世に一人もいないのである、むしろ正義のために本当に戦おうとする者は、わずかな間命を全うしようとする場合でさえも、私人として暮らすべきで、公人として働くべきものではないのである。-

 

この箇所に対する解釈は、難しい。まず、「国のうちに多くの不正なことや違法なことが起こらないように妨げる人」というのは立派な人だと思う訳だが、ソクラテスはこのような人は「命を全う」できないと言っている。では、命とは何かと考える訳だが、当時の理解としては、多分、命というのは身体が生きているということと、そこに魂が入っているということの双方を意味していたのだろうと思う。

 

生命 = 身体 + 魂

 

そしてソクラテスは、身体よりも魂を重視していた。極論すれば、身体が生きていたとしても、そこに魂が入っていなければ、人間は生きていることにならない。そのような理解を前提とした上で、上記引用文の「命を全う」という箇所を読み返すと、その真意に近づくことができる。

 

また、「公人として働くべきものではない」という箇所の公人とは、政治家を差しているのだろう。そうしてみるとこの箇所を簡単に言い換えると、「正義と真理を追究すること、すなわち哲学を志向しようとする人は、政治家になるべきではない」ということになる。この問題は、本質的な深さを持っている。そもそも正義と真理を探究するということ、すなわち哲学をするということは、人間には困難な厳しい挑戦なのであって、誰でも気軽にできるということではない。哲学をするためには、大衆に迎合してはいけない。権力に屈してはいけない。そのためには、お金や名誉を欲してもいけない。そう考えれば、哲学を目指す者は、政治家になどなってはいけないことになる。

 

そもそもソクラテスにとって、哲学をするということは、街中へと出掛けて行き、だれ彼となく話しかけ、得意とする問答法によって相手を論破するということだった。そんなことをするから、ソクラテスアテナイの人々から嫌われたのであって、そのことは本人も自覚していたのである。すなわち、ソクラテスのように人間社会の非合理に気付いた者は、必然的に社会から孤立していくのだ。このように孤立した者をこのブログでは「単独者」と呼んでいる。ソクラテスアテナイという都市国家を大きくてのろまな馬に、そして自らをその馬にひっつく虻(アブ)に例えている。これは単独者であるソクラテスの立ち位置を表わす良い比喩だと思う。

 

すなわちソクラテスは、自ら正義と真理の探究に励もうとしたのであり、そのためには科学者や政治家になることは許されず、社会とは距離を取って単独者として生きようとしたのである。しかし、それはとても困難な生き方だ。そんなソクラテスのような生き方を真似出来る人間など、ほとんどいないのではないか。

 

そもそも、ソクラテスの哲学に向かう態度は、とても外向的だと言える。何故、ソクラテスがそのように現実の論争相手を必要としたかと言うと、それはソクラテスパロール(音声言語)に固執したという事情が深く関わっているに違いない。これに対して、エクリチュール(文字言語)を基礎として、ひたすらソクラテスの物語を記述し続けたプラトンは、内向的だったと言える。プラトンは、死ぬ直前まで書き続けていた。

 

ソクラテス ・・・ パロール ・・・・・・ 外向的

プラトン ・・・・ エクリチュール ・・・ 内向的

 

軽々にどちらが優れているとは言い難いが、哲学の歴史を考えると、圧倒的にプラトンのようにエクリチュールに向かい、内向するタイプの哲学者が多かったと言えるだろう。そして、哲学に対してそのような態度で向き合うという方法は、ソクラテスのような態度を取る場合ほど、困難ではない。

 

では、ここまでの話の要点をまとめてみよう。まず、人間の社会には理不尽なことが沢山ある。ソクラテスの時代で言えば、詭弁を弄する知識人(ソフィスト)、正義を求めない自然学者、自分の名誉やお金のことばかりを考えている政治家、自らが不知であることに気付かない人々などがいた。(現在の日本も同じだ。)そんな社会にあって、正義と真理を追い求めようとすると、すなわち哲学をしようとすると、必然的にその人は社会と敵対し、単独者となる運命を背負うのである。単独者としていきる方法は、大別すると2つあって、1つはソクラテスのように外側に向かうという方法で、2つ目はプラトンのように内向するという方法である。但し、ソクラテスが取った態度を真似ることは極めて困難だが、プラトンが取った内向するという態度であれば、それを真似することは比較的容易である。そして、プラトンが取った態度を根源から支えたのは、エクリチュールなのだ。社会と適正な距離を保ちながら、それでも単独者として正義や真理を探究しようとした場合、それを可能とする記号はエクリチュールだけなのである。つまり単独者にとっては、エクリチュールこそが希望なのだ。

 

ところで、オーストリア出身の哲学者ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、他の多くの哲学者同様、過酷な人生を過ごした。生きている間に彼が発行した哲学書は、「論理哲学論考」ただ1冊だった。今日、彼が得ている名声は、彼の死後にもたらされたものである。しかし、末期ガンで死亡する直前、ウィトゲンシュタインは付き添ってくれていた女性に対し、次のように述べたのである。

 

「皆に伝えてください、私の人生は素晴らしかったと」

 

結局、哲学をする、いや、もう少し広い意味で思想と言おう。つまり、思想を持つというのはそういうことなのだ。人間は、普遍的な真理に到達することはできない。しかし、個別的な真理を獲得することは可能なのだ。そして、個別的な真理を獲得した者は、幸福な人生を送ることができる。つまり思想とは、個別的な真理を目指すことであって、それは自己の魂の救済を図ることに他ならないのである。