文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

新しい思想

 

いきなり私事にて恐縮だが、私は、日本の政治を諦めることにした。アベ友の山口敬之による準強姦事件をもみけした中村格が、警察庁の長官に昇進したらしい。この国に正義はないのである。私は長い間、巨悪が究明され、司法の手によって罰せられることを望んできた。モリ、カケ、サクラに広島の選挙買収事件。結局、何一つ、真相は解明されていない。期待して裏切られるのは、もう疲れた。少なくとも私の目が黒いうちに、この国の政治という舞台において、正義が実現することはない。そう思うことにした。

 

諦めたら負けだ、それでは権力者の思うツボだ。そう主張する識者は少なくない。しかし、それでは一体どこに希望があると言うのだろう。国会は空洞化し、行政は腐敗し、司法は機能不全に陥っている。第4の権力とも言われるメディアの大半は、広告主である大企業と政権与党に尻尾を振っているのである。

 

私が応援している「れいわ新選組」の支持率は一向に伸びないし、立憲民主党は大企業労組の団体である連合の支配下から抜け出るつもりがなさそうである。

 

現在、自民党の総裁選が話題になっており、私も、それなりに興味をもって成り行きを見守っているが、所詮、自民党というシステムの内部における闘争に過ぎない。正義とは、常にシステムの外側からもたらされるのだ。

 

さて、老人のボヤキはこの程度にして、新しい思想や社会制度が生まれるメカニズムについて、考えてみよう。

 

仮にAという思想があったとする。それを打ち破る新しい思想Bは、Aを否定することによって生ずる。マルティン・ルターカトリックに対するアンチテーゼとしてのプロテスタントを提唱したし、ジョン・ロックは王権神授説を否定して、平等を訴えた。

 

A → B

 

ここに異論はないだろう。さて、それではCという思想が生まれる時は、どうだろう。CはBを否定することによって、成立する。それは、上に述べた原理と同じである。では、CとAの関係はどうだろう。Cは、BのみならずAをも否定しなければ、成立しないのである。仮にCがAを肯定した場合、CはすなわちAと同じか、Aの亜流となってしまうからである。すなわち、新しい思想であるCを生み出すためには、必ず、その直前の2つ、すなわちAとBの双方を否定する必要があるのだ。

 

A → B → C

 

このように述べると、ヘーゲル弁証法を思い浮かべる方がおられるかも知れない。AとBが対立する。するとアウフヘーベンしてCに至るという、あの考え方である。しかし、私がここで述べようとしていることは、弁証法とは異なる。人間の思想や社会制度は、アウフヘーベンなどしない。いつまで待っても、人間の社会は進歩しないし、解決されない問題だらけなのである。もしヘーゲルが生きていたなら、日本の現在の惨状を教えてやりたい程である。アウフヘーベンしないので、私の説は、どこまで行っても水平の関係にある訳で、上昇しない。

 

少し飛躍するが、このABCの関係を現代文明に当てはめてみよう。すなわち、まず、資本主義がある。これがA。そして、資本主義に対抗して共産主義が生まれた。これがB。資本主義と共産主義は激しく対立しているが、どちらの世界も一向に良くはならない。従って、新しい思想Cの登場が待たれている。そして、新しい思想Cは、その直近の2つの思想の双方を否定しなければ成立しないのである。換言すれば、資本主義と共産主義の双方を否定しなければ、新しい思想Cは生まれないことになる。

 

A・・・資本主義

B・・・共産主義

C・・・新しい思想

 

そもそも共産主義における歴史観は、「唯物史観」と呼ばれるものだ。これは、次のように要約される。(哲学中辞典/知泉書館

 

- 物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。-

 

つまり、物質的な環境や条件が、人間の精神を規定すると言っているのである。しかし、人間の歴史とは、そんなに単純な原理で動いてきた訳ではない。そこには多くの偶然があり、虚構が介在し、狂気を孕みながら、動いてきたに違いないのだ。これが、私の意見である。

 

また、共産主義を構成する重要な要素として、革命を挙げることができる。確かに共産主義革命を果たしたかつてのソ連や中国においては、資本家の権力は失われたのだろう。しかし、資本家が持っていた権力は、官僚や共産党に移行したに過ぎない。権力Aが権力Bに変わっただけで、人々を拘束する権力が消失した訳ではないのだ。

 

そもそも、今日の日本のように経済原理としての資本主義と、政治原理としての民主主義を採用している諸国において、共産主義革命など起こるはずはないのだ。選挙によって、政権を替えることが可能なので、革命を起こす必要すらないのである。また、革命の目的は、権力構造を変えることにあるのだろうと思うが、現代の日本の権力構造は、とてつもなく複雑で、一体、どこをどういじればそれを変更できるのか、それ自体が定かではない。現代日本の権力者とは、政治家であり、資本家であり、裁判官であり、官僚であり、メディアなのであって、権力の実態とは彼らが作り出すシステムそのものではないのか。

 

従って共産主義では、資本主義と民主主義によって構築された堅牢なシステムに対抗することはできない。まずは、そのことを前提としなければ、新しい思想Cは生まれないと思う。