文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

フーコー三角形

 

ミシェル・フーコーの思想を形作る重要な要素は、3つある。それは権力、知、主体であって、これらの3要素を線で結んだものをフーコー三角形と言う。

 

一体、何の話? そう思った方のために、極めて分かりやすく私の考え方を説明しようというのが、本稿の趣旨である。そのためには、まず、健康診断に関する私の実体験から説明しなければならない。

 

10年程前のことになる。私は現役のサラリーマンで、誕生月には必ず健康診断を受けていた。身長、体重、血液検査、心電図などの検査を受ける。その結果が記されたカルテを持って、最後には医師との面談を受けなければならない。

 

医師は、厳しい顔つきをしながら私のカルテを見ている。

 

- 少し、血圧が高いですね。薬が必要かな。まあ、もう少し様子を見ますか。-

 

医師はそう言った。私は、憂鬱な気分でその部屋を出ようとした。その時、女性の看護師さんが私に近づいて来て、耳元でこう言ったのである。

 

- 大丈夫ですよ。あなたの血圧は、年令、相応です。-

 

私はほっとして、頭を深々と下げて、その部屋を出た。一体、どういうことなのだろう。私は、ネットなどで血圧に関連する情報を収集した。「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(幻冬舎新書)という本も読んだ。

 

思えば、世の中には不思議なことが沢山ある。1日に摂取すべき野菜の量は、とんでもなく多い。そんなに野菜を食べることはできない。そこで、必要な量を摂取できるという野菜ジュースが売られているのである。ネットでも、人の不安を煽るような記事が無数に掲載されているが、それらの記事を読むと、最後には必ず薬を飲めと書いてある。

 

本当かどうかは分からないが、大病院には必ず薬漬けになっている植物状態の患者が2~3人はいるらしい。薬漬けにすると、病院は儲かる。そのような患者を若干数は保持していないと、病院の経営が成り立たないというのだ。

 

世の中、怪しげな話ばかりだ。

 

7年程前に現役を退いた私は、これで健康診断から解放されると思って喜んだものだった。しかし、今度は区役所から健康診断を受けろという通知が来るのだ。3年程これを無視していたら、何と、区役所から電話が掛かってきた。多分、役所では健康診断の受診率を管理していて、それを上げるよう上司から指示されているに違いない。

 

- 私には、健康診断を受けない自由がありますよね。-

 

電話口でそう言うと、区役所の人はその通りだと言った。以後、電話は掛かって来ない。

 

上記の経緯により、私はかれこれ7年以上、健康診断を受けていないし、野菜ジュースも飲んでいないが、体調は良好である。他方、毎年ガン検診を受けていたにも関わらず、ガンで死んだ知人もいる。

 

(注: 本稿は、健康診断を受けるな、野菜ジュースは必要ないということを主張するものではありません。これらの点は、各自が判断してください。)

 

さて、それでは話をフーコー三角形に戻そう。まず、上の話における権力者とは、製薬会社のことだ。結局、薬を沢山売って儲かるのは、製薬会社なのである。そして、医学的な知を司っているのは、医師である。一体、血圧がどの程度になると薬が必要なのか、そんなこと素人の私に分かるはずはない。そんな私の前に、偉そうな顔をして、白衣を着た医師が現われて、判断を下すのである。ちなみに世の中には、製薬会社の社員が大病院の医師を接待したり、金品を渡したりするという話もある。

 

そして、この権力者と知を司る者をつなぐ、複雑なシステムが存在する。上の例で言えば、現役の者も引退した者も、片っ端から健康診断をするというシステムがある。そこで何らかの症状が発見された者には、自動的に薬が投与されるのだ。このように考えると、システムとは権力と知を結び付ける制度のことだ、という仮説が成り立つ。

 

更に、そんなシステムを見て、逡巡する「私」が登場する。「私」は自らの態度を決めなければならない。これが「主体」の問題である。

 

権力 ・・・ 製薬会社

知  ・・・ 医者

主体 ・・・ 私

 

このように考えると、同じような話は他にもある。例えば、王様が国を統治していた時代の西欧社会においては、王様が権力者で、王様の権力は神に授けられたものだと主張する神学者(知を司る者)がいて、そこに暮らす人々(主体)がいた訳だ。

 

哲学は、私たち人間が生きている世界を認識し、そして、私たち自身がその世界とどのような関係を取り結ぶべきか、それを考える学問である。そこで、フーコーは世界の成り立ちを権力と知に求め、そこに主体の問題を加えて、思考したのだろうと思う。