文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反権力としての文明論(その2) 権力についての試論-暴力型

 

私たちの暮らしのそこかしこに、権力は存在する。時にそれは、とてつもなく不愉快なものであるが、人々はそれに気づくことなく、権力を行使したり、またはその被害者となったりしているに違いない。権力には、例えば国家権力のように大きなものから、男女間や家庭内に発生するような小さなものまである。また、権力は時代と共にその態様を変化させてきたのだろうと思う。

 

では、権力とは何か。その本質を見ることは可能なのか。そう思う訳だが、何故か、真正面から権力について語るような文献に、私は巡り合ったことがない。そこで私は、権力について、自分で考えてみることにした。

 

まず、権力が行使される場合には、ある背景となる力が存在するはずだ。例えば、2人の人間がいたとして、両者の属性が全く同一であった場合、権力は発生しないのだろうと思う。この場合でも諍いが生ずる可能性はあるが、その場合でも、2人が戦う条件はイーブンなのだ。そうではなくて、2人の間に何らかの属性上の差異がある場合に、権力は生ずるのである。このように、個人間や集団と集団、もしくは集団と個人の間に存在する差異をここでは「背景」と呼ぶことにする。

 

次に権力は、人間に対して向けられるのだと思う。もちろん、自然破壊や動物虐待は言語道断だが、それは権力とは別の問題ではないか。では、権力は人間の何を攻撃するのだろう。この権力の攻撃対象をここでは「標的」と呼ぶことにする。

 

次に、権力の特質を考える上で、それを行使する者の属性を特定する必要があるだろう。また、権力に従属させられる者についても、同様である。ここでは権力を行使する者を「権力者」、権力に従属させられる者を「被害者」と呼ぶことにしよう。

 

また、権力を行使するのは、権力者が何らか利益を実現させようとするからであるに違いない。その利益のことを「目的」と言うことにする。

 

上記の評価項目を検討すれば、権力の類型化が可能となる。そして、私の検討結果は次の通り、5種類の権力を抽出することとなった。記載順は、概ね、古いものから新しいものへと並べてみた。

 

暴力型

宗教型

組織型

知性型

経済型

 

では、評価項目に従って、順に考えてみよう。

 

<暴力型>

 

最も単純な権力とは、腕力にものを言わせて、他人を従わせるというパターンだと思う。これが暴力型であって、それは古代より人間社会に蔓延していたに違いない。この暴力型は近年、DV(Domestic Violence)としても脚光を浴びている。

 

また、単なる腕力に留まることなく、人間は武器を開発して、その戦闘能力を高めてきた。武器を用いた大規模な闘争は、戦争となる。敗戦国は、戦勝国の権力下に置かれる。現在の日米関係もしかりである。

 

暴力型における権力者は、当然、腕力や武力の強い者ということになる。強者が弱者に勝つ。また、単純に考えれば、大きな国は小さな国よりも強い。この2つの原則に従えば、より大きな国が小さな国を統合していき、最終的に世界は1つの国になるはずだが、現実は、そう単純ではない。ある集団が大きくなると、その内部において、新たな権力闘争が始まるに違いない。そうであれば、いつまでたっても、世界が1つの国になることなど、あり得ない。もう1つ言えそうなことは、人間集団は大きくなる程、権力が強くなるということだ。反対に言えば、集団の構成員が少なければ少ないほど、民主的である可能性がある。例えば、14億人の人口を抱える中国における権力は、強大である。反対に、比較的人口の少ない西欧諸国においては、民主主義が根付き易いのだと思う。わが日本はどうか。私は、人口が多すぎると思う。直接民主制を採用できた古代ギリシャの人口には諸説あるようだが、せいぜい2万人である。

 

次に、権力者は何故、この暴力型の権力を発動するのか。それは、権力者の内部事情によるに違いない。例えば、かつて教師は日常的に生徒を殴っていた。体罰である。教師たちは、生徒のためを思って殴っていたのだろうか。いわゆる、愛の鞭というやつだ。私は、そうではないと思う。殴られる生徒の側に、落ち度がないと言うつもりはない。しかし、規律を保つのは、教師の責務である。その職責を果たすため、すなわち教師の側の内的な事情によって、教師は生徒を殴っていたに違いないのだ。

 

かつて、アメリカはイラク大量破壊兵器を保持していると主張し、同国に対し武力を行使した。しかし、最終的にそのような兵器がイラクにおいて、発見されることはなかったのである。では、何故、アメリカはそのような戦争を始めたのか。それは、アメリカの内部事情による。September 11と呼ばれる大規模なテロがあり、アメリカ国民の怒りは頂点に達した。アメリカ政府は、そのような国民の怒りの矛先を、どこかへ向ける必要があったのだ。そこで、確たる証拠がないにも関わらず、イラクへの攻撃を始めたのである。

 

この権力者の内部事情のことをエゴイズムと言い換えても良いだろう。被害者の事情は、ほぼ、関係がないのである。一方的に権力は自らのエゴイズムに基づき、この暴力型の権力を発動する。では、そのエゴイズムの中身はどうなっているのだろう。それを類型化することは可能だろうか。そう思う訳だが、残念ながら私にそれはできない。エゴイズムの内容は、千差万別なのである。極端な例を挙げれば、通り魔殺人というのがある。誰でもいいから殺したかった、という理由なき殺人のことである。人間の内奥を探っていくと、そこには狂気やカオスが存在するのであって、エゴイズムもそこに端を発している場合があるのだ。

 

また、権力を発動する者とは、正に「主体」である。そうしてみると、権力について「主体」の問題を除外して検討することはできない。なるほど、そういう関係にあった訳だ、と今更ながらに反省する次第である。よって、本稿においても、主体の問題を含めて検討することにしよう。

 

権力 - 知 - 主体 - 文化

 

では、簡単に一覧にしてみよう。

 

背 景: 腕力、武力

標 的: 人間の身体

権力者: 腕力、武力の強い者。大国

被害者: 腕力、武力の弱い者。小国

目 的: エゴイズム

実 例: 暴力、戦争、DV

 

この「権力についての試論」は、一挙に掲載しようと思っていたが、思いのほか大変だ。今回はここまでとして、一区切りつけさせていただこう。