文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

救済としての芸術(その4) エクリチュールを巡る闘争

 

最も古い文学は、無文字社会において口頭で伝承された民話や童話だろう。そこには動物たちに対する愛情や、素朴な人々の暮らしが描かれている。そこに権力の匂いは存在しない。何故かと思う訳だが、無文字社会においては、権力そのものが存在していなかったのだと思う。

 

およそ6千400年前のメソポタミア文明エジプト文明において、文字が発明されたと言われている。また、大陸から日本に文字が伝わったのは1世紀頃だそうで、その後、日本は遣隋使や遣唐使を派遣し、貢物と交換に多くの巻物などを大陸から持ち帰った。聖徳太子が17条憲法を制定した頃(7世紀)には、日本人もかなり自由に文字を扱っていたのだと思う。

 

文字によらない「知」もあるが、それらは住居の建築方法や農作物の育成方法など、具体的なものであった。ソクラテスの弁明、聖書、種の起源憲法。正しいかどうかは別として、それらが現代文明に多大な影響を与え続けていることは、間違いないだろう。そして、そこに見られる共通点は、どれもが文字(エクリチュール)によって、書かれているということだ。やはり、人間を対象とする「知」は、文字によって構成され、蓄積されてきたのだ。

 

では、無文字社会にもたらされた文字。それがどのようにして今日的な状況に至ったのか、そのプロセスを考えてみたい。

 

初期段階において、識字能力を有していたのは、一部の知的エリートや貴族のみだった。この段階で人間社会に階級なり、不平等が生まれたのだろう。人間不平等起源論を書いたルソーがどう考えたのかは知らないが、私は、不平等の起源は文字にあると思う。

 

初期段階の知的エリートは、宗教関係者だった。そして彼らは、文字によって記された宗教的な「知」を大衆に開示しようとはしなかったはずだ。宗教上の「知」は、神秘的だからこそ、その価値を高める。大体、お坊さんが詠むお経というのは、意味が分からないからこそ、有難いのである。仮にお経が平仮名で書いてあって、その意味を全て理解できたとすれば、何も葬式や法事のときにお坊さんを呼ぶ必要はないのである。つまり、宗教関係者は、文字と文字によって構成される「知」を秘匿しようとしたに違いなのだ。

 

しかし、反対に文字を開示させようとする勢力も存在したに違いない。それは、官僚であり、政治的な権力者のことである。識字能力を持たない千人の大衆と、識字能力を持つ千人の大衆がいたとして、どちらの方が統率し易いだろう。結論は、明白である。このように、文字と文字によって形作られる「知」を開示すべきだとする勢力と、それに反対する勢力が生まれ、長い闘争の歴史が始まったのだ。気の遠くなるような長い年月と、心ある人々の多大な努力があって、教育という概念が生まれたのだろう。

 

そこで、人間社会は次の段階に突入する。すなわち、文字を書くのは知的エリートや権力者であって、大衆がそれを読むという構図だ。すなわち、文字情報は上から下へと一方向のみに伝達されるのだ。権力者は、お達しとか、命令とか、様々なルールについて文字を使い、大衆の側へと伝達し、大衆はそれを読む。この段階で、大衆が文字を書く機会は、極めて少なかったに違いない。仮に文字を書いたとしても、そこに自己の経験や主張が表現されることはなかったはずだ。

 

次に、文字情報を伝える媒介、すなわちメディアが登場する。当初のメディアは、立て看板や張り紙だったのではないだろうか。その後、印刷技術が生まれ、本や新聞が生まれた。今でも本を書くのは学者で、新聞記事を書くのは新聞記者である。彼らがエリート意識を捨て切れないでいるのは、このような歴史的経緯に基づくのだろう。

 

やがて、近代文学が登場する。当初のそれは、知的エリートや貴族から始まったのである。森鴎外は医者だったし、夏目漱石はイギリスに留学している。マルキ・ド・サドも貴族だった。しかし、程なく貴族でも知的エリートでもない人々の中から、小説を書く者が現われたのである。論理的な論文形式のものであれば、学者にかなわない。事実に関する情報であれば、メディアに対抗できない。そこで彼らは、小説という形式を利用して、自らの経験を綴り始めたのである。世間がどうであろうと、私は、このような経験をした、その時、私はこう感じた、私はこう思った、ということを表現したのである。この段階に至って、文字情報は上から下だけではなく、下から上へも流れ始めたに違いない。これは、近代的自我の誕生とも言えるもので、文明の中に主体が登場した瞬間でもあるのだ。

 

少し、整理をしてみよう。

 

まず、文化があった。文化の中で、人々はパロールによってコミュニケーションを取っていた。やがて文字、すなわちエクリチュールが発明される。エクリチュールは「知」をもたらした。「知」は人間集団を強化すると共に、階級や差異をもたらしたのである。当初、エクリチュールや「知」は秘匿されていたが、長い闘争を経て、それは徐々に開かれていった。そして、エクリチュールを手にした普通の人々が小説を書くようになり、近代的な自我が生まれた。

 

主体 - 文化 - 秩序

 

上の図に照らして言えば、まず、文化から出発し、エクリチュールの力によって、それは大きく秩序の側に動いたのである。そして、エクリチュールの力を逆手に取った普通の人々の力によって、それは主体の側へと大きく揺り戻しを始めたのである。現代という時代は、その途上にあるに違いない。