文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

救済としての芸術(その7) 個人の時代

 

「真善美」というのは、ソクラテスが言った言葉らしい。この言葉を少し、私なりに解釈してみたい。

 

「真」とか真理というのは、「全ての人々が幸福になる方法」のことだ、と私は考えている。そうしてみると、これは人間社会の秩序に関わることだと言える。次に「善」だが、これは個人の良心のことである。胸に手を当てて考えてみろ、とか、お天道様が見ているぞ、というのは法的な規範ではなく、個人の良心に訴えかける言葉であって、これは主体の問題である。最後に「美」だが、これは女性の美であり、居住空間における美であり、伝統的な美のことである。従って、これは文化の中に存在する。このように考えると、本稿において私が提案している構造、すなわち主体、文化、秩序という概念と「真善美」は符号する。

 

主体(善) - 文化(美) - 秩序(真)

 

この構造の全体を考えると、今日の文明社会においては、主体と秩序の対立が激化しているように思える。一見、秩序の側が優勢であるような印象もあるが、秩序化が進んだことの反作用として、主体の側がむくむくと台頭して来ているのが実態ではないだろうか。

 

最近、高級官僚を目指す学歴エリートたちは、減少している。転職する官僚も少なくないと言う。無理もない。高級官僚に上り詰めたとしても、国会で嘘の証言を強要されたり、与野党の政治家から理不尽な攻撃を受けたりするのである。既に大企業においても終身雇用制は揺らぎ、リストラや転職によって、離職する人たちは少なくない。また、少子高齢化が進み、地方における村落共同体の崩壊は、確実に進行している。

 

言ってみれば、現代社会における人間は、集団や秩序に依存して暮らすのではなく、個人の選択によって、人生を組み立てることが求められているのだ。このような個別化、個人化という現象は、デジタル技術の進展と共に出現したに違いない。

 

歴史的に見ても、マスコミとは時の権力者の意向なり、権力の行使を大衆に伝えるのがその役割だった。言ってみれば、上から下へと情報を流す。それがマスコミの役割なのだ。近年、マスコミの劣化が批判されているが、その批判には違和感がある。高尚なメディア論があることは私も知っているが、元来、マスコミだって1つのビジネスであることに変わりはない。そして、彼らのビジネスモデルは、企業の宣伝広告に依存しているのであって、マスコミに正義を求めるのは、所詮、無理な話だと思う。もちろん、そのことに人々は、既に気付き始めている。

 

そして、インターネットの登場により、情報を伝達する媒介、すなわちメディアは、個人の手に解放されつつある。ブログから始まって、それはツイッターYouTubeと急速にその種類を増加させている。こうして、下から上を目指す情報の流れが構築されつつあると言っていいだろう。

 

最近、フジテレビは大規模なリストラを発表した。産経新聞は、全国での販売を断念し、地方紙へと移行するらしい。例えば、テレビとYouTubeの戦いだが、私は、YouTubeが勝つと思う。テレビは、決められた放送時間でしか見ることができないが、YouTubeは、いつでも視聴できる。テレビは一方向だが、YouTubeであればコメント欄を利用することによって、双方向のコミュニケーションが可能となる。地上波のテレビが無くなるとまでは言わないが、その衰退傾向は今後、一層加速するだろう。

 

新聞とネット。こちらも、ネットの側に軍配が上がるだろう。新聞を読むためには購読料が必要だが、ネットは無料である。そして何よりも、新聞の情報は遅い。私は、たまに駅前の蕎麦屋へ行った際、新聞を読むことがあるが、その記事の古さに驚くことが少なくない。大手新聞社の中には、不動産業へ移行しているところがあると聞く。今後、廃刊に追い込まれる新聞社が出てくるかも知れない。

 

ツイッターの威力も侮れない。これは簡単に記事や写真を添付することができるのが強みである。

 

こうなって来ると、人々の間に新たな分断が生まれるに違いない。人々は、次の3種類に分類されると思う。

 

1.ネットにアクセスできない人。

2.ネットにアクセスできるが、自らは情報を発信しない人。

3.ネットで自ら情報発信をする人。

 

問題は、2番と3番の違いである。すなわち、自ら情報を発信するか否か、という点だ。その違いが何かと言うと、それは個性を持つか否か、本稿の言葉で言えば主体を持つか否かという問題に関わってくる。簡単に言えば、個性のない人は情報を発信しづらい。個性のない人は、発信すべき情報を持たないからである。もう少し、正確に言おう。本当は、個性のない人など、いないのだ。但し、自分と向き合うことなしに、個性を発見することはできない。

 

世の中には、「普通のおばさん」という人種がいる。少なくとも、私はそう思って来たし、私は彼女たちに興味を持つことはなかった。特に意見もなく、普通に暮らしているに違いない。しかし最近、ネットを見ていて、私の感じ方に変化が生じた。

 

例えば、「普通のおばさん」が野良猫と出会う。野良猫は腹を空かせているし、どこかケガをしていたりする。これはとても可哀そうだ。何とか助けたい。餌をやってみる。チュールを差し出してみる。そうやって、野良猫との距離を詰めていって、なんとか捕獲に成功する。「普通のおばさん」はその猫を動物病院へ連れて行き、名前を付ける。風呂に入れる。そういう猫動画がYouTubeに沢山アップされている。そのような動画を継続的に見ていると、そこはかとなく「普通のおばさん」の感受性や、人生が浮かび上がって来るのだ。すると、彼女は最早「普通のおばさん」ではなく、個性を有した立派な女性だと思えて来るから、不思議なのである。

 

猫動画は、YouTubeというメディアが生み出した、新しい大衆芸術の1つだと思う。また、老い先の短い私などは、どうでもいいようなものだが、若い人には何か1つ位、情報発信にチャレンジしてみることをお勧めしたい。

 

いずれにせよ、今ほど人間の個性やアイデンティティ、すなわち主体が脚光を浴びる時代というのは、人類が過去に経験したことがないものである。そして問題は、未だに人類が、主体とは何か、という問いに対する答えを持ち合わせていないことだと思う。