文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

救済としての芸術(その8) エピローグ

 

森友学園事件。時の総理大臣を守るために、財務省は公文書を改ざんすることにした。改ざん作業を命じられた赤木俊夫さんは、良心の呵責に苛まれ、精神のバランスを崩し、自殺した。夫の死の真相を知りたいと願った妻、赤木雅子さんは国を相手取って、1億700万円の損害賠償を求める訴訟を提起した。すると証人尋問を開催する前の段階で、国側は突然全面敗訴を自ら認める(認諾)として、訴訟は打ち切られた。結果として、この訴訟において、赤木俊夫さんが死に追いやられた真相が明らかになることはなかった。

 

上記のケースにおいて、国側で訴訟対応に当たった官僚は、財務省法務省である。これらの役人の側に正義があるのか、それとも正義は赤木さんご夫妻の方にあるのか。私は、後者の方だと思う。確かに官僚たちは、訴訟対応において違法なことをした訳ではない。法的には、官僚たちが取った行動は適法なのである。しかし、法律には限界がある。法律を守ることは、確かに大切だ。しかし、それだけでは不十分なのだ。もっと大切なことは、自らの良心を鍛え上げることに他ならない。私だったら、財務省法務省の役人たちに、こう言いたい。君たちに魂はないのか!

 

このように、秩序(法律)と主体(赤木さんご夫妻)は、対立するのである。

 

私たちは、秩序を批判する能力を持つべきなのだ。批判とは、ただ悪口を言うことではない。批判とは、限界を見定める認識能力のことである。例えば、裁判官は偉い人なのだろうか。確かに彼らは、一流大学を出ているかも知れない。司法試験にだって、合格している。大体、彼らは黒一色の法服と呼ばれる服を着て現われ、原告や被告よりも高い席に座るのである。これはとても偉そうだ。しかし、そんなことに騙されてはいけない。確かに彼らは、法律の知識を豊富に持ってはいるものの、酷く世間知らずで、自らの裕福な人生を大切にしているのである。大体、裁判官は過ちを犯し易いので、三審制が取られているのだし、過去に冤罪事件だって、多く発生している。すなわち、彼らにも限界があり、それは私たちが持っている限界と大差はないのである。

 

ところで、現代社会の秩序は、宗教、社会科学、自然科学から成り立っていると思う。まず、宗教。何を今更、と思われるかも知れない。しかし、公明党の支持母体は創価学会(仏教系)だし、2012年に公表された自民党改憲草案は、国家神道に基づく価値観を強く打ち出している。すなわち、自公政権は、宗教的な価値観に依存しているのである。だから、夫婦別姓だって、未だに実現しないのだ。

 

次に、社会科学。その代表例は、法律と経済である。法律学の起源は古代ローマにあり、その歴史はとても永い。しかし、現代において、法律は敗北しているように見える。結局、法律学は、法律さえ守っていればいいんだろう、という短絡的な価値観を生んだし、国の最高法規たる憲法だって、今日の政府与党を拘束することに成功してはいない。法律学に代わって台頭したのが、経済学である。こちらの歴史は浅い。マルクスにしてもケインズにしても、最近の人(?)である。秩序を構成する要素として経済が台頭したのには、いくつかの歴史的な要因がある。イギリスで勃興した産業革命もそうだし、自然科学が生んだ自動車が果たした役割も大きい。自動車は便利だし、自動車が経済の国際化に果たした役割はとても大きい。昨今のITを自然科学の枠組みに入れるべきか否か、定かではないが、ITが金融取引を活性化し、グローバリズムと貧富の格差拡大を招いたことは確かだろう。こうして現在の西側先進諸国の文明は、宗教と、経済と、テクノロジーによって秩序化されている。そして、その秩序は「経済的カースト制」とでも呼びたくなる酷い代物なのである。

 

結局、所得は男の方が女よりも高く、若者よりも高齢者が、低学歴者よりも高学歴者が、地方よりも中央が、それぞれ優遇される。

 

ほとんど絶望的な気分になるが、実は、そうでもない。「経済的カースト制」は、人々が働かなければ生きていけないということを前提としているが、近年、この前提が揺らぎ始めている。マクロ経済におけるMMT(Modern Monetary Theory)が台頭してきたし、ベーシックインカムも真剣に議論され始めている。労働に対する価値観が変化すれば、悪夢のような「経済的カースト制」は崩れるに違いない。

 

主体 - 文化 - 秩序

 

秩序に対しては、批判する認識能力を持とう。本来、主体の側に立つべき文学者の中にも、宗教に帰依する人は少なくないが、それは文学の敗北を意味するのだ。

 

文化を維持、発展させるためには、グローバリズムとは戦い、ローカリズムで対抗しよう。

 

人は、1人で生まれてきて、1人で死んでいくのだ。文明という枠組みで考えても、私たち個人の人生を考えても、最も大切なのは、主体なのである。主体の中には、欲望もあれば、狂気もある。それはとても壊れやすい。だから、私たちはそれをより良いものへ、より強いものへと鍛え続けなければならない。そのための手段が、芸術なのだと私は思う。

 

 

以上をもちまして「救済としての芸術」を終了します。読み返してみますと、構成はハチャメチャで、とても恥ずかしい原稿となりました。しかし、主体、文化、秩序の3要素で文明を考えるという方法は、私にとっての到達点となるものです。当分、これを超えることはできないように感じています。もちろんこれは、人間並みの、個別的な真理であるに過ぎません。しかし、皆様が何かを考える際に、多少なりとも参考となれば幸いです。

 

このブログは、暫く休みます。今後の予定は、白紙です。

 

少し早いですが、どうか良いお年をお迎えください。

 

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