文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

独裁者は民主主義を恐れる

 

ひとたび戦争が始まると、その地域や国に住んでいる人々が永年に渡って育んできた文化やその成果物は、破壊される。それは歴史的な建築物や優れた芸術作品に限ったことではない。例えば、あるお婆さんがいて、彼女はとてもおいしいシチューを作ることができたとしよう。そのシチューを作るためのちょっとしたコツとか、そのノウハウは彼女の子供や孫たちに伝承されるべきなのだ。一見、平凡に見える市井の人々といえども、ある程度の年令になれば、何らかの文化的な創造力を兼ね備えているに違いない。文化とはそのような些細なことの集積で成り立っているのであって、そのお婆さんが爆撃によって死んでしまった場合、その文化的な価値は喪失するのである。

 

戦争が始まると人々の思考能力は低下する。人間の思考能力は、静かな環境の中で本を読んだり、芸術作品に触れたりする時、とりわけ1人で過ごす時間の中で発揮されるのだ。生きるか死ぬかという過酷な状況下にあって、人間は思索に耽ることができない。

 

子供は年を重ねるのに比例して、心身共に成長する。それと同じで国家や社会も少しずつ成長し、成熟していくべきだと思うが、戦争が始まるとそのような成長は止まる。むしろ国家や社会の年令は、退行すると言うべきだろう。

 

それにしても極悪非道の独裁者プーチンは、何故、この戦争を始めたのだろう? 東方へと拡大を続けるNATOの軍事力を恐れたのだろうか。しかし、そうであればNATOとの融和を目指すべきであって、自らNATO諸国との軍事衝突を招くリスクを高める必要はない。結局、プーチンNATO諸国をはじめとする西側諸国が持つ民主主義を恐れたのだろうと思う。旧ソビエト連邦に加盟していた諸国は、次々と民主主義を採用し、NATOへの加盟を果たした。その勢いは、国境を挟んだウクライナにまで届き始めた。仮に民主主義がロシア国内にまで浸透すれば、独裁者プーチンは失脚する。失脚した独裁者の末路は哀れなもので、自殺に追い込まれるか、暗殺されるか、死刑判決を受けるのだ。それが嫌で、つまりプーチンは自分が民主主義に殺されるのが嫌だから、この戦争を始めたのだろう。プーチンには、正義のかけらもない。

 

正義は、自由と民主主義の側にある。独裁は悪だ。確かに私もそう思うが、正義を振りかざして戦争に加担すれば、それは瞬く間に世界中に広がる。2度に渡って繰り返された世界大戦が、そのことを証明している。敵の敵は味方。ただ、それだけの原則に従って、世界は2つに分かれ、血で血を洗う殺戮を繰り返したのである。そこから学ぶべき教訓は、戦火を拡大してはならない、ということだろう。他方、独裁者プーチンの狂気によって、ウクライナの人々の命が失われてゆくという現実もある訳だ。戦争に加担すれば戦火は広がる。しかし、戦争に参加しなければ、ウクライナに住む無辜の人々が命を失う。これは二律背反だと言わざるを得ない。では、どうすれば良いのか。残念ながら、人類は未だその答えを持ち合わせていない。人間の理性に重きを置いた近代思想は、言わばこの問題を解決できないために行き詰ったのではないか。そして、ポストモダンが生まれる訳だが、残念なことにポストモダンも、解決策を示すことはできていない。

 

もう少し、具体的に考えてみよう。日本のウクライナ戦争に対する関わり方には、いくつかの段階があるのであって、それはグラデーションになっているに違いない。関与の薄い方から、順に記してみよう。

 

人道支援 - 意見の表明 - 経済制裁 - 武器供与 - 戦争への参加

 

ウクライナに対する人道支援。これは大いにやるべきだし、反対する人はいないだろう。次に、国連などの場を通じて、ロシアに対する意見を表明すること。これもいいだろう。ロシアに対する経済制裁はどうだろうか。これはプーチンに対して停戦に向かうインセンティブを与えるものである。私は、ここまでは実施すべきだと思う。しかし、仮に日本がウクライナに対して武器を供与した場合、それは日本が間接的に参戦することを意味するのではないか。よって、ここで線を引くべきだと思うのだ。武器供与は止めておいた方が良いと思う。

 

つまり、左の方(関与が弱い方)であれば、戦争に参加することにはならず、日本人の安全は守られる。但し、ロシア軍の砲撃からウクライナの人々を守ることはできない。反対に右の方(関与が強い方)に進めば、多少なりともロシア軍の砲撃からウクライナ人を守ることはできるだろうが、日本がロシアから攻められるリスクが発生する。だから、この問題は、二律背反だと思うのである。

 

ところで、国家の運営システムについては、独裁制と民主制の間に寡頭制(かとうせい)というものがある。独裁制は、独裁者1人による支配であって、寡頭制とは少人数による支配形態を言う。これは独裁制と民主制の中間に位置する制度だと言えよう。

 

独裁制 - 寡頭制 - 民主制

 

では、日本はどの制度を採用しているのだろう? 私は、寡頭制だと思う。この問題について語ると長くなるので、別の原稿に記すことにしたい。