文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

野蛮からの脱出

 

ウクライナ戦争について、1つ確実に言えることがある。それはこの戦争が、人類の戦争史上、最も撮影された戦争であるということだ。言うまでもなく、それはスマホとドローン技術によってもたらされた。そして、それらの技術がブチャで繰り広げられた惨劇を映し出したとき、この戦争に対する国際世論は、大きな転換点を迎えた。拷問、殺人、レイプ、略奪。ロシア軍が行ったこれらの蛮行は、人類が築き上げてきた文明を根本から否定するものだった。そして、これらの蛮行は、世界中の国々に対して、またその事実を知る全ての人々に対して、困難な課題を投げ掛けたのである。各国は、そして私たち自身は、どう向き合うべきなのか。かつてナチズムを生んだドイツは、ウクライナに対し攻撃型の兵器を供与すべきか否か、悩んでいる。フィンランドスウェーデンは、NATOに加盟すべきか否か、思いあぐねている。義勇兵としてウクライナに入国した人もいれば、反対にウクライナから脱出した人もいる。国家に絶望し、フィンランドやトルコへ逃げ出したロシア人も少なくない。一体、どうすべきなのか。この問いは、人類の思想史に突き付けられた刃なのだ。

 

人類は、何故、このような惨劇を繰り返すのか。そこには、メカニズムがあるはずだ。例えば、経済的な貧困から出発して考えてみよう。

 

ロシア兵の多くは、貧しい地域から派兵されている。例えば、彼らがウクライナの民家から略奪した物品の中には、洗濯機が含まれている。それ程に彼らは貧しい。貧困は、教育を受ける機会を奪う。そして、教育から疎外された者は、単純労働に従事することになる。彼らは、自分たちよりも複雑で高度な仕事に従事し、高い収入を得ているエリートが存在することを知っている。そこで、彼らは強烈なコンプレックスと嫉妬心を持つことになる。すると彼らの心の傷を癒す民族主義、宗教、国家主義などが彼らに忍び寄る。(自らの国家を愛することは間違っていないと思うが、自分の国が他国よりも優れていると考えるのは誤っており、ここではその誤った国家主義を差している。)

 

こうして野蛮な社会が醸成される。野蛮な社会は、例えばウクライナで繰り広げられた蛮行に加担するような野蛮人を再生産する。野蛮人の特徴は、自らのアイデンティティーを自らに求めないところにある。自分が何故、自分なのか。自分の特徴は何か、ということを考えない。自分は、優秀な○○民族であるとか、自分は真理を体現する××教の信者だとか、自分はとても強い△△国の国民だとか、そう考えることによって自尊心を保つ訳だ。つまり野蛮人は、自分の頭では考えないのだ。ソクラテス風に言い換えると、野蛮人とは、自らの魂に配慮しない愚か者のことなのだ。また、野蛮人は決して反省などしない。野蛮人は、自らが取り付いている妄想に固執する。プーチンも妄想に取り憑かれている可能性がある。それはロシア正教ロシア帝国主義であるかも知れない。または、自らをロシアの皇帝であると錯覚している可能性すらある。何と野蛮なことだろう。思えばドストエフスキーが描いた「罪と罰」においても、主人公であるラスコーリニコフは妄想に取り憑かれ、金貸しである老婆を殺した。妄想など、抱いてはいけない。そのことをソクラテスは、「不知の自覚を持て」という言葉に込めたのではなかったか。

 

野蛮人の集団は、その中から独裁者を生む。そして、独裁者は必然的に集団の利益よりも自らの利益を優先する。そのことが公表されると困るので、独裁者は必ず、嘘をつくのである。そして、独裁者は自らの嘘を隠蔽するために恐怖政治を行う。内部のメンバーを粛清したりする訳だ。この恐怖政治が始まると、他のメンバーは自発的に隷従するのである。これはボエシが指摘している。また、独裁者は自らの嘘が暴露されそうになると、集団を構成するメンバーの興味をそらすため、外に敵を作る。この敵は、仮装敵国と呼ばれる。元来、この敵国は架空のはずだが、独裁者が嘘をつき通すためには、実際に戦いを挑む羽目に陥ることも少なくない。冷静に考えれば、ロシアがウクライナに攻め入る必要など、どこにもなかったのである。こうして侵略戦争が始まり、それがジェノサイドへと発展する。

 

概ね、私は上記のように考えているが、このメカニズムについては、私よりも上手に、かつ詳細に説明できる人は、いくらでもいるに違いない。いずれにせよ、この「野蛮のメカニズム」の中にいる限り、戦争やジェノサイドを回避することはできないし、野蛮な社会の住民が、幸福になることはない。そうしてみると、哲学者が採るべき立場も見えてくる。つまり、どうやって野蛮人を文明人に変革していくか、いかに野蛮からの脱出を試みるべきか、その道筋を示すのが哲学者の使命なのである。

 

野蛮人 → 文明人

 

何とシンプルなテーゼだろう! これなら小学生でも理解できそうだ。同じようなことは、カントも言っている。但し、カントの説は私の意見よりも複雑で、かつ普遍的であるかも知れない。

 

カントはまず、未成年という用語を次のように定義する。

 

- <未成年>という語によって、彼(カント)が理解するのは、理性を使用するのが妥当な領域において、私たちが活動するときに、誰か他人の権威を受け入れてしまうような、私たちの意志の状態のこと -

 

そして、人は未成年である状態から「脱出」したときに、成人となるのである。では、どのように「脱出」するかと言えば、それが「啓蒙」なのである。

 

- 啓蒙は、したがって、ひとびとが集団的に構成するプロセスであると同時に、また個人的に実行すべき勇気の行為である -

 

- (啓蒙とは)人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用する時(モーメント)である -

 

・・・ということになる。なかなか難しい訳だが、簡単に言うと、啓蒙によって人は未成年から成人へと成長(脱出)することができる、ということだろう。

 

未成年 → 成人

 

そして、ミシェル・フーコーは、「現代の哲学とは何か」という問いに対して、次のように答えることもできるだろう、と述べている。

 

- 現代の哲学とは、二世紀前に、かくも不用意に投げ掛けられた問い「啓蒙とは何か」、に答えようと試みる哲学である -

 

さて、高尚な文章を引用した後で恐縮ながら、私のシンプルな説を補足させていただきたい。哲学を中核とする人間の思想は、現実世界の出来事に立脚すべきだろう。そうでなければ、机上の空論になってしまう。そして、プーチンという狂気の独裁者が登場した以上、そのことを無視した思想は、意味をなさないように思う。その文脈で考えると、やはり如何に野蛮を脱して文明へと向かうのか、そのことを考えるべきではないだろうか。

 

そのためには、まず、貧困をなくそう、という主張も成り立つだろう。但し、上に記した「野蛮のメカニズム」が永く作動し続けると、当然の帰結として、特権階級が生まれ、特権階級に属する人間もまた、野蛮な状態に陥るのである。フランス革命のときに「庶民には食べるパンがないのです」と言った臣下に対し、マリーアントワネットは「パンがないのであればケーキを食べればいいじゃない」と答えたという話がある。これは作り話だそうだが、如何にもありそうな話ではある。つまり、貧困をなくすだけでは、本質的な解決にならないのだ。生活困窮者が陥る野蛮、特権階級が陥る野蛮、その双方に共通するのは、経験の不足ではないだろうか。人は経験から学ぶ。実体験のみならず、本を読んだり、芸術作品に接したりすることも経験の一種だと思う。この間接的な経験は、「追体験」と呼ぶべきかも知れない。1人の人間が経験できることの範囲は、あまりにも狭い。その幅を広げるためには、やはり追体験が重要であるに違いない。

 

マルクス以後の思想界における収穫の1つには、無意識の存在を提唱したフロイトの心理学がある。これによって、人々の人間観は一変した。また、文化人類学によって、私たちは無文字社会のあり方を学んだのである。そこに構造を見出したのがレヴィ=ストロースだった訳だが、むしろ私たちは文化人類学を通じて、手探りながらも芸術の本質を発見しつつあるように思う。

 

思考するためのピースは、揃っているのではないか。それらを組み立てれば、新しい哲学を生み出すことができるはずだと思う。それは是が非でも必要なのだ。私たちが野蛮から脱出するために。

 

参考:フーコー・コレクション6 / ちくま学芸文庫