文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

私の個人主義/夏目漱石

 

夏目漱石が生まれたのは明治維新の前年、1867年のことだった。すなわち漱石は、明治という時代と共に成長したのであり、文明開化の申し子だったとも言えよう。漱石の名は「坊ちゃん」などの小説によって有名になった訳だが、彼が日本人に愛され続けているのには、他にも理由がありそうだ。明治という時代には、とかく優れているのは西洋であって日本は遅れている、という認識が広がっていたのである。急激な変化とコンプレックスに悩まされていた日本人に対し、漱石は何をどのように考えるべきなのか、その指針を示すと共に、疲弊した日本人を励ましていたのである。例えば漱石は、「模倣と独立」という講演の中で、次のように述べている。

 

- 自分のオリヂナリテーを知らずに、あくまでもどうも西洋は偉い偉いと言わなくても、もう少しインデペンデントになって、西洋をやっつけるまでには行かないまでも、少しはイミテーションをそうしないようにしたい。芸術上ばかりではない。私は文芸に関係が深いからとかく文芸の例を引くが、その他においても決して追っ着かないものはない。-

 

では、表題の通り漱石の「私の個人主義」と題された講演について見てみよう。

(参考文献: 私の個人主義夏目漱石講談社学術文庫

 

英語が得意だった漱石は、英国留学のチャンスを得る。当時のことだから、それは大変名誉なことだったに違いない。周囲の期待を一身に背負い、漱石は英国へと渡り、そこで英文学を学ぶのである。いや、正確に言えば、英文学を学ぼうとしたのだった。漱石は、本件講演の中で次のように述べている。

 

- 私はこの世に生まれた以上何かをしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。(中略)私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。(中略)しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢(ふくろ)の中から出るわけに参りません。この嚢を突き破る錐はロンドン中探して歩いても見付りそうになかったのです。-

 

- この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。-

 

こうして漱石は、予定の留学期間を早めに切り上げて、帰国する。漱石がこのように悟ったのは、ロンドンでのことだった。その前提で計算すると、漱石は遅くとも36才の時点では、かかる境地に至ったこととなる。36才と言えば、私などは何も知らず、ただ生活の糧を得るために仕事に励んでいた時期であり、恥じ入る他はない。

 

西洋の文化なり文学は、それを作り上げるに至った西洋の歴史を基礎としているのであって、そのような歴史を持たない日本に、そのままの形で持ち込んだとしても、そこには無理が生ずる。漱石が主張した第1の原則は、ここにあった。しかし、そのことを更に推し進めて考えると、そもそも他人の考えたことが自分にも当てはまるとは限らないのであって、第1の原則は個人のレベルにも当てはまることになる。漱石は、次のように述べている。

 

- どうしても、一つ自分の鶴嘴(つるはし)で掘り当てる所まで進んで行かなくっては行けないでしょう。行けないというのは、もし堀り中(あ)てることが出来なかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。-

 

- どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てる所まで行ったら宣かろうと思うのです。(中略)貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。-

 

「私の個人主義」と題された講演における1番目の主題は、概ね、以上の通りだ。そしてこの講演は、2番目の主題へと移っていく。こちらについて漱石は、自ら箇条書きにして説明している。

 

第一、自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。

 

第二、自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。

 

第三、自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。

 

上記3点のうち、今日においてとりわけ重要なのは、第一の「他人の個性を尊重せよ」という主張だろう。最近、流行っている「同調圧力」などもっての外ということになる。

 

私の印象としては、漱石の講演録を見る限り、右翼思想と左翼思想の分化が見られない。この点は、トマス・ホッブズの思想に似ているような気がする。また、漱石の講演録には反戦思想というものが登場しない。漱石は戦争というものをある程度許容していた可能性がある。若しくは、日清・日ロ戦争に勝利した後の軍国主義に向かっていた日本の政治状況にあって、漱石としても反体制的な言論を控えざるを得なかったという事情があるのかも知れない。いずれにせよ、21世紀を生きる私たちと漱石とでは、100年に及ぶ時代の相違がある。

 

奥日光にて

さて、本稿の本題に入ろう。漱石の主張の中で私が最も注目している点は、西洋からの借り物ではなく、また、他人の受け売りではなく、人はオリジナルの思想を持たなければならない、という点なのだ。この点を考えていると、私はフロイトユングの関係を思い出すのである。

 

フロイトユングはある時期、互いに協力しながら心理学の研究を進めていた。しかしその後、ユングフロイトと袂を分かつことになる。そして、両者は全く異なる理論を構築したのだ。2人とも、借り物ではないオリジナルの思想を築いたと言っていい。(アドラーにも同じことが言える。)何故、だろう? 簡単に言えば、フロイトフロイトの、そしてユングユングの人生を背負っていたのである。ユングは自ら統合失調症を患いながら、分裂病患者の治療に当たっていた。一方、フロイトが向き合っていたのは、神経症の患者だった。つまり、フロイトにとっての真理と、ユングにとっての真理とは、異なるものだったのである。2つの真理は異なっているのであって、今日においても、どちらが正しいと軽々には言えない。すなわち、これらの真理は普遍的ではなく、個別の真理だと言わざるを得ないのだ。そのように考えると、西洋の思想は西洋人にとっては真理であったとしても、日本人にそのまま当てはまることはない、とする漱石の思想に通ずる。

 

自分自身にとっての個別の真理に到達するためには、簡単に言えば、「自分の頭で考えなければならない」のである。では、どうすれば自分の頭で考えることができるかと言うと、カント風に言えば、いかなる権威にも依存しない、ということになる。その権威とは、政治的な権力や社会の同調圧力のみならず、宗教やアカデミズムを含むことになる。昨今、メディアでは専門家だとか大学教授という肩書が重宝されているが、彼らの言うことを頭から信じてはいけない。彼らは、私たちが考える前提条件や参考情報を提示してくれはするが、そこから私たちを真理に導いてくれるようなことはないのである。どんなに分厚い本も、どんなに偉い先生であっても、私たちが1番知りたい「私」にとっての真理を教えてくれることはない。そこへ到達するには、自分の頭で考える以外に方法はないのだ。

 

この摩訶不思議な原理から、私たちは絶望を感じるべきなのか、はたまた希望を見出すべきなのか。私は、その答えを知らない。しかし、人間にとっての真理が個別的であるが故に、新しい哲学が生まれるのだ。偉大な先人がいたとしても、いや、私はこう考える、と主張する余地があるので、新たな哲学が生まれ続けるのである。換言すれば、自分の頭で考える人がいる限り、哲学は進化し続けるのである。

 

また、人生において普遍的な真理に到達することができなかったとしても、「私」にとって最も重要な私自身の、個別的な真理に到達すれば、それで良いとも言える。今の所、我々ホモサピエンスは絶滅していない。今後とも、暫くは生き続けるだろう。しかし、「私」の寿命はそれ程永くはない。その限られた時間の中で、例えば漱石のように、個別的な真理に到達することができれば、それだけで良い人生を送ったと言えるのではないか。そして、個別的な真理を求めること、自分の頭で考えることによって、人は成長するのである。

 

自分の頭で考えろということを、ソクラテスは「自らの魂に配慮せよ」という言葉に込めたのだろう。そしてソクラテスは、人間が到達し得る個別的な真理のことを「人間並みの知恵」と呼んだに違いない。更に、個別的な真理とは決して普遍的なものではないので、第三者に押し付けてはいけない、謙虚でなければならない、更に上を目指せ、という意味を込めて「不知の自覚」という言葉を用いたのではないか。

 

今年も、4月27日がやってきた。この日は、紀元前399年にソクラテスが毒杯をあおって死んだ日だ。ソクラテスの功績を称え、4月27日は「哲学の日」として定められている。あなたも、あなた自身の真理に思いを馳せて欲しい。

 

奇しくも4月27日は、私の誕生日でもある。私は、66才になった。漱石と比べると随分遅咲きではあるが、そろそろ私も私自身が必要とする個別的な真理を手に入れたと考えても良いのではないか。これが「主体」に関わる哲学上の解答なのだ。