文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その1) 人間は何を守ろうとしているのか

 

人間は集団を作って、ここまで生き延びてきた。そして人間は、その集団の結束力を強めようとする。結束力の強い集団は、そうでない集団よりも戦闘能力が高い。そして、戦乱の世にあっては、結束力の強い集団の方が生き延びる確率が高い。

 

では、人間はどのようにして集団の結束力を高めようとしてきたのだろうか。私の見方は、次の通りである。まず、権力者がある仮説を立てる。若しくは、権力者が既存の仮説を捻じ曲げる。そしてその権力者はメンバーに対し、その仮説を信じるように強制し、その仮説を信じた者は、その集団の正式な構成メンバーとして許容されるのだ。もちろんそれは、仮説に過ぎないのであって、未だかつてその正しさが実証されたものなど、1つもない。実証されたことがないのだから、換言すれば、それは幻想に過ぎないことになる。集団によって信じられた幻想。この集団によって支持された幻想のことを便宜上、ここでは「集団幻想」と呼ぶ。

 

民族主義、宗教、国家主義などが、集団幻想の典型である。我々は同じ民族である。我々は同じ神を信じている。我々は、優れた日本国の臣民である。権力者は、そう言って集団の結束力を強めてきたのである。

 

しかし集団幻想は、それらに留まらない。原発安全神話や仮想敵国というものもある。仮想敵国に立ち向かうという目的で、権力者はその延命を図る。権力者は、仮想敵国との間での緊張を高め、その軍事的な緊張がある限界値を超えると、実際の戦争が始まる。

 

元来、集団幻想というのは、権力を維持するための手段に過ぎない。しかし、いつの間にかそれは、目的へと変容する。集団幻想を守ること自体が目的となり、人間は戦争という惨劇を繰り返す。

 

一体、どこでこの不幸なシナリオを断ち切ることができるだろう。その大元まで行けば、そもそも人間が集団を作るという段階にある訳だ。しかし、人間は何らかの集団を作らなければ、生きていけないだろう。集団ができると、次の段階で権力が生まれ、権力者が集団幻想を作るのである。

 

集団 → 権力 → 集団幻想 → 戦争

 

では、権力自体を無くしてしまえという考え方もあり得ることになる。しかし、権力がなければ何らかの紛争が生じたときに、それを仲裁し、解決することができない。そうしてみると、戦争を回避するためには、集団幻想に立ち向かう以外に手はないのだ。集団幻想を解体する。集団幻想の外に出る。そうすることができれば、人間は、戦争を回避することができるに違いない。

 

では、人間は、集団幻想の外に出ることができるか。これが最後の提題だ。この結論を述べることは、とても辛いことだし、述べるべきではないのかも知れない。しかし、現実から目を逸らしてはいけないとも思う。

 

人間は、集団幻想の外に出ることはできない。

 

もしそれができるとすれば、それは文明の構造自体を変更するような大きな出来事が起こるか、もしくは突然変異によって、ホモサピエンスよりも優れた新しいヒトが生まれたときではないだろうか。但し、ここまで言ってしまうと、SFみたいで荒唐無稽になってしまうのだが。

 

結局、人間は、兵士や一般人の生命よりも、集団幻想を守ろうとしているのだ。