文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その2) 洞窟の比喩/プラトン

 

暗い洞窟の奥深くに、多くの囚人たちが鎖に繋がれている。彼らは、洞窟の壁に映し出される影のみを見て、生きている。彼らは、それが現実であり、この世界の全てだと信じている。ある日、1人の囚人の鎖が解き放たれ、外に出ることが許される。洞窟の外に出た彼は、あまりの明るさに戸惑う。やがて明るさに眼が慣れてくると、彼は、陽光に照らし出された素晴らしい自然界を目撃する。そして、彼は理解するのだ。洞窟の壁に映し出される影は真実ではなく、太陽の下に広がる美しい自然界こそが本当の世界であると。彼はそのことを仲間の囚人たちに知らせようと、急いで洞窟の奥深くへと走って戻る。そして、何とかそのことを伝えようとするのだが、囚人たちは誰も彼の話を信じようとはしない。それどころか、囚人たちは彼を排斥しようとするのだ。

 

これが、プラトンが比喩的に提示した人間の世界である。視覚的に説明した短いYouTube番組があるので、リンクを貼っておく。2分30秒。

 

私たちは洞窟の囚人 / 洞窟の比喩 / プラトン / 2分30秒

https://www.youtube.com/watch?v=QSnkQhkdh7U&t=79s

 

ちなみに、1人、洞窟の外へ出た男のモデルは、ソクラテスだと言われている。そうしてみると、この比喩は、「ソクラテスの弁明」と同じことを説明したものだと解釈することができる。つまり、ソクラテスに死刑を言い渡した陪審員たちに対し、「あなた方は、洞窟の囚人たちと同じなのだ」と言っているのである。

 

この比喩は、秀逸である。2千400年も昔の人が述べた話ではあるが、今日においても充分に通用する。いちいち具体例を挙げることはしないが、私たちの身の回りにも、暗い洞窟の底から出て来ようとしない人々は、とても多い。何しろ彼らは、洞窟の外を見たことがない。だから、外の世界があると言われても信じないのである。

 

それでは、「洞窟の外に出よう」と言えば、ブログの主張としては明快だろう。しかし、本稿の趣旨は、もう少し複雑なのである。

 

 

まず、古代ギリシャの様子を考えてみよう。当時は戦乱の世で、ソクラテスが生きた時代も例外ではなかった。当時は国家というものが、今日のように確立されてはいなかったのである。ポリスとも呼ばれる比較的少人数の都市国家が集団の単位で、ポリス同士で戦争をしていた。ソクラテス自身、少なくとも次の3回の戦争に参加している。

 

・ポティダイアの戦い

・デリオンの戦い

・アンフィポリスの戦い

 

そして、戦争に敗れたポリスの市民には、2つの選択肢が与えられた。1つは、勝利した側の兵士に殺されるか、又は自ら命を絶つという選択肢である。2つ目は、勝利した側の奴隷になり、最低限の食物だけは与えてもらう、というものだった。

 

ソクラテスが所属していたアテナイというポリスは、滅法戦争に強かったので、その帰結として、多くの奴隷が存在していた。また、煩雑な仕事は全て奴隷に任せていたので、余裕のあったアテナイは、多くの哲学者を輩出したのである。

 

このような状況下にあって、ソクラテスは戦争を当然の営為であると考えていた節があるのだ。

 

- アテナイの風雲は休むひまがない。ソクラテスは、まさにその渦中のなかで生きねばならなかった。戦争はすこしの平和をはさみながら続いていた。かれは三度もその戦いに参加した。だれのために、勇敢と忍耐をささげたのであろう。祖国アテナイのためであった。それをかれは不思議にも思っていない。ポリスあっての個人であり、個人あってのポリスではない。-

(出典:ソクラテス中野孝次著/清水書院/人と思想/P.105)

 

つまり、あのソクラテスでさえ、戦争に疑問を持たなかったのである。

 

そろそろ、論点を整理しよう。

 

どの地域や国家においても、ある時代を支配する科学的な知見、常識、価値観などがある。それをある人は「知」と呼ぶ。ミシェル・フーコーはそれをエピステーメーと呼んだ。そして私は、科学的な知見、常識、価値観などのうち、権力と結びついたものを集団幻想と呼んでいる。

 

冒頭に紹介したプラトンの洞窟の比喩。ここで言う洞窟とは、集団幻想のことだと思う。そして、戦争や奴隷制に疑問を持ち得なかったソクラテスプラトンですら、この集団幻想の外に出ることはできなかったのである。

 

但し、私は決してソクラテスを批判している訳ではない。私が思うのは、ソクラテスに限ったことではなく、私自身を含め、全ての人間は集団幻想の外に出ることができない、ということなのだ。例えば、今から300年後、すなわち24世紀の人々からすれば、21世紀の人間はとても奇妙で、愚かな存在だと思うだろう。換言すれば、集団幻想の外に出ることができないという原理は、人間の宿命なのである。

 

自らの魂に配慮せよというソクラテスの主張は、集団幻想の外に出よ、と言っているに等しい。この意味において、ソクラテスは正しいと思うし、その思想は人間の宿命に対する挑戦だと言える。決して叶わぬ夢かも知れない。それでも思考し続けること、物事を根本から疑い続けること、それが大切なのである。

 

「知」、エピステーメー、集団幻想。これらは決して、一朝一夕に変化するものではない。しかし、戦争を疑わなかったソクラテスの時代から2千400年が経過した今日においては、戦争に反対し、平和を求めようとする人々が世界中に存在する。長い目で見れば、集団幻想は確実に変化するのだ。

 

オルテガの著書に「個人と社会」というものがあって、是非これを読みたいと思ったことがあった。書店に注文すると、それが既に絶版になっていることを知った。「個人と社会」とは、何とも興味深いタイトルである。しかし、現在の私は、最早この著作に対する興味を失った。この問題についての、私なりの結論が出たからである。

 

つまり、個人の生き方には、2種類しかないのだ。1つ目としては、集団幻想に縋り付き、わずかな利権を求めて生きるという方法。2つ目としては、あくまでも集団幻想の外に出ようと試み、思考しながら人生を全うするという方法である。これが私の考える「個人と社会」の関係である。