文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その4) フロイトの思想、エロスと破壊欲動

 

1932年と言えば、第1次世界大戦が終結し、国際連盟が組織された後で、第2次世界大戦が始まる7年前のことだ。その年、国際連盟アインシュタインに対し、粋な依頼を行ったのである。それはまず、今の文明にとって最も重要であると思われる問いを選定することであり、次にそのテーマについて適切であると思われる相手と書簡を取り交わす、というものだった。そして、アインシュタインが設定したテーマは戦争であり、書簡を取り交わす相手として、彼は精神分析フロイトを選んだのである。その背景として、この2人がユダヤ系であるという共通点を持っていたことも、頭の片隅に入れておいた方が良いだろう。

 

それにしても、何と好奇心を掻き立てる話だろう。一体、彼らはどのような書簡を交わしたのだろうか。幸いこの話について、私たちは2冊の文庫本を通じて知ることができる。

 

文献1: 人はなぜ戦争をするのか/フロイト中山元 訳/光文社古典新訳文庫/2008年/640円

 

文献2: ひとはなぜ戦争をするのか/A. アインシュタイン S. フロイト/浅見省吾 訳/講談社学術文庫/2016年/600円

 

文献1は、フロイトにフォーカスするもので、アインシュタインの書簡は収録されていない。但し、フロイトが書いた他の論文が収録されている。また、解説が充実していて、フロイトの思想的な変遷がコンパクトにまとめられている。他方、文献2はアインシュタインの書簡についても、その全文が収録されている。

 

では、アインシュタインの書簡とフロイトの返信について、その要旨と私の所感を述べることにしよう。

 

アインシュタインの書簡>

 

アインシュタインはまず、彼が設定した課題について述べる。それは「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるか?」というもの。そして彼は、人間の心の中にこそ、戦争の問題の解決を阻むさまざまな障害があると考えている。この問題については、物理学者である自分よりも心理学者であるフロイトの方が、より深く、適切に考察できるだろうというのである。

 

次にアインシュタインは、国際連盟の役割と限界について言及している。すなわち、国際社会が1つの機関を作り上げ、その機関に国際的な紛争解決に関する立法権司法権を付与すれば、戦争によらずして国際的な紛争を解決できるというアイディアについて述べている。これはカントの思想に基づいて設立された国際連盟を差しているものと解釈できる。但し、実際にその機関(国際連盟)の決定に当事国を服従させるためには、そのための権力が必要となる訳で、それを持たない国際連盟の役割には自ずと限界がある。

 

アインシュタインのこの書簡は、上記のような疑問から出発する訳だが、疑問が疑問を呼ぶような構造になっている。つまり、この文章には起承転結というものがない。このような文章を要約するのは困難であり、むしろ、彼の疑問を箇条書きにした方が分かり易いと思う。

 

疑問1: (課題)「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるか?」

 

疑問2: 「少数の権力者たちが学校やマスコミ、そして宗教的な組織すら手中に収め、その力を駆使することで大多数の国民の心を思うがままに操っている!」。その理由は何か。

 

疑問3: 「人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?」

 

少し、私の所感を述べよう。「疑問2」において、アインシュタインは権力論を展開している。彼によれば、少数の権力者がいて、その権力者が戦争を始めるのだ。そして、その権力者に追従する者たちがいる。1つには、武器商人たちである。その他の例として、上記の引用文に登場する学校、マスコミ、宗教団体などが挙げられている。これは、人間の社会を集団単位で見ていることになる。すなわち、それは哲学、憲法学、社会学などが扱うべき分野の問題なのだ。それが、「疑問3」になると一気にブレイクダウンして、個々人の心の問題、すなわち心理学上の問題へと転換されている。そのようなアプローチが可能なのか、これは思考実験であり、フロイトとしても厄介な問いを投げ掛けられたものと解釈して良いだろう。

 

フロイトの返信>

 

フロイトは、アインシュタインが提示した問題に対し、はじめに「私の力の及ぶところではない」とか「政治家が取り組むべきものではないか」などと弱気な態度を示した上で、持論を展開し始める。

 

フロイトはまず、「法による支配」など、法律学政治学的な論点から説き起こすが、ここにはあまり見るべきものがないので、割愛する。フロイトの説の真骨頂は、彼の欲動理論にあると言って良い。広辞苑によれば、「欲動」とは、「人間を行動に駆り立てる内在的な力」のことである。そしてフロイトによれば、欲動には2種類あって、簡単に言えば、それは愛と憎しみのことなのだ。ただ、フロイトが語る欲動はもう少し複雑なのであって、更に彼はそれを複数の名詞に置き換えているので、若干の混乱が生じているように思う。彼が使っている代表的な言葉を選定して、その定義を明確にしたい。

 

エロス: エロス的欲動。性的欲動。一般に言われる「性」という言葉よりも幅広いものを意味する。生への欲動。保持し、統一しようとする欲動。

 

破壊欲動: 破壊し、殺害しようとする欲動。攻撃本能。破壊本能。死の欲動

 

フロイトによれば、エロスが善で、破壊欲動が悪ということではない。2つの欲動は互いに結びついており、一方の欲動が他方の欲動と切り離され、単独で活動することなど、あり得ないのである。また、実際の人間の行動は、エロスと破壊欲動が結びついて出来上がった1つの欲動によって引き起こされるのではない。ほとんどの場合、人間の行動は、いくつもの欲動が合わさって、引き起こされるのだと言う。すると人間を戦争に向かわせる欲動にも、多くの種類があることになる。

 

更に厄介な問題がある。そもそも生命体は、異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っているのだ。そうしてみると、破壊欲動は生命体にとって、生命を維持していく上で必要不可欠な、そして健康的な欲動だとも言える。但し、破壊欲動の一部は生命体へ内面化されるのだ。つまり、破壊欲動が自分自身に向かうことがあり、これはとても不健康な現象なのである。換言すれば、暴力的で、非理性的で、他人の権利を蹂躙するような人間の方が生命体としては健康であり、反対に理性的で他人の権利を擁護しようとする人間の方が、病んでいるということになる。このような考察から、フロイトは1つの結論を導く。便宜上、これを結論Aとしよう。

 

結論A: 「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない!」

 

これは困った。結論Aに従えば、人間は戦争を止めることができないのである。フロイト自身も頭を抱えたに違いない。そこでフロイトは、2つの対策を提示する。1つ目は、破壊欲動の反対、すなわちエロスを呼び覚まそうというものだ。そして、2つ目の対策としては、文化の発展を促す、というもの。該当箇所を引用してみよう。

 

- はるかなる昔から、文化が人類の中に発達し広まっていきました(文化という言葉よりも文明という言葉を好む人もいます)。 (中略) 文化が発達していくと、人類が消滅する危険性があります。なぜなら、文化の発達のために、人間の性的な機能がさまざまな形でそこなわれてきているからです。(中略)文化の発展が人間の心のあり方に変化を引き起こすことは明らかで、誰もがすぐにきづくところです。(中略)ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まってきました。文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは、知性を強めること。力が増した知性は欲動をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。好都合な面も危険な面も含め、攻撃欲動が内に向かっていくのです。(文献2 P. 52以下)-

 

こうしてフロイトは、結論Bに至り、このアインシュタインへの返信は幕を閉じる。

 

結論B: 「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」

 

では、私の所感を述べよう。賛成できる点と、そうでない点の双方がある。

 

結論Bは、一見、人類の明るい未来を示唆しているようだ。しかし、そうではない。文化を発展させると、人間の破壊欲動は自分自身に向けられる傾向があるのだ。それは、性的な能力の低下をも意味する。実際、先進諸国と開発途上国とを比較すると、先進諸国の方が婚姻率や出生率は、著しく低いのである。すなわち、文化を発展させると人類が消滅する危険性があるのだ。この点は、フロイトもそう明言している。

 

- 文化が発展していくと、人類が消滅する危険性があります。(P. 52)-

 

それでも、戦争を回避するためには、文化を発展させていくべきだ、というのが肝要な主張なのである。この点について、私は賛成である。現在、ウクライナで展開されているような残酷で、理不尽な蛮行を繰り返す位なら、人類は滅亡した方がマシだと思う。但し、人口が減少し続けると、ある閾値(しきいち)に達するのではないか。全ての人々が自然の恵みを充分に得られる程度にまで人口が減少すれば、そこから人口は増加に転ずるのではないだろうか。

 

そもそも、フロイトの説は、基本的な論理矛盾を抱えている。彼は、悲観論としての結論Aと、楽観論としての結論Bの双方を提示している訳だが、結論Aを否定し、結論Bを肯定すべき理由が、明確には述べられていない。最後まで読み通しても、悲観論としての結論Aが何故、否定されるのか、判然としないのである。

 

フロイトの脳裏は混乱しており、その混乱がそのままこの文章に表出していると言わざるを得ない。そもそも、彼は何故、「文化」という用語を用いたのか。そこに過ちの理由があるように思う。上にも引用したが、フロイトは次のように述べている。

 

- はるかなる昔から、文化が人類の中に発達し広まっていきました(文化という言葉よりも文明という言葉を好む人もいます)。-

 

大切なのは、カッコ書きの部分だ。彼は何故、このような注書きを加えてまで「文明」という言葉を使わず、「文化」と言ったのか。ここに私は、強烈な違和感を持った。そして、想像した結論は、次の通りである。

 

フロイトは「戦争」という用語の反対語を探したのではないか。「文明」と言った場合、その良し悪しは別として、「戦争」を含むと考えるのが一般的ではないか。「文明」は「戦争」を含む。従って、「文明」は「戦争」の反対語にはなり得ないのである。卑近な例で言えば、日本国は埼玉県を含む。従って、埼玉県は日本国の対立語にはなり得ない。それと同じことなのだ。一方、「文化」という概念は、「戦争」を含まない。従って、「文化」は「戦争」の反対語になり得る。「戦争」対「文化」。この2項対立を成立させるため、フロイトはここで「文化」という用語を選択したに違いない。

 

フロイト自身が言っているように、文化とは「はるかなる昔から」積み上げられてきたものである。その典型は、衣食住にある。それこそ「はるかなる昔から」ほとんどの人間は、衣服を身にまとい、食事をし、住居に暮らしてきたに違いない。それが文化の本質だ。しかし、人間はある段階から文化とは別に、何らかの秩序を構築しようとしてきたのである。戦争という行為の本質も、そこにあると私は思っている訳だ。戦争というのは、一見、破壊行為のように思えるが、実際は、戦勝国の価値観や社会体制を敗戦国に押し付けるところにある。つまり、戦勝国の秩序を拡大させること。それが戦争のもたらす帰結なのである。

 

すなわち、文化と戦争とでは、位相が異なる。領域が異なるのである。そして、領域が異なるので、いくら文化を発展させたとしても、秩序領域に属する戦争という行為を抑制することは困難なのだ。これが私の認識である。このブログで繰り返し述べている私の文明観は、次の単純な公式によって表現され得る。

 

文明 = 文化領域 + 秩序領域 + 主体領域

 

このように考えると、秩序領域に属する戦争という現象を文化と対立させることによって思考すること自体が、誤りだと思えるのだ。換言すれば、フロイトは文化という用語を用いることなく、ここは文明と言って、その上で論理を構成するべきだったに違いない。

 

また、フロイトが主張するように文化を発達させたからと言って、人間が知性的になるとは限らないのである。我々が住む日本を見るが良い。日本には永い歴史と優れた文化がある。しかし、現在の日本人が知性的かと言えば、答えは否である。

 

・・・・・・・・・・・

 

追記: この「戦争と文明」シリーズ、しんどくなってきましたが、もう少し頑張ろうと思います。次回は、あのカイヨワを取り上げる予定です。