文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文明と戦争(その5) 統一教会とグローバリズム(その1)

 

宗教と国家の間には、永い相克の歴史がある。簡単に述べてみよう。

 

古代において、シャーマニズムを基軸とするローカルな集団が誕生した。部族と言っても良い。彼らは、自分たちの価値観や信仰をうまく伝えることはできなかったはずだ。彼らは、歌い、踊っていた。しかし、何故そうするのか、彼ら自身、それを説明することは困難だったはずだ。すると、彼らの価値観や信仰を、他の部族に伝えることは困難であったと推測することができる。その後、文字が誕生する。文字によって、宗教上の経典が記されることになる。すると彼らの価値観や信仰の対象は、容易に説明することが可能となる。そこで、彼らは彼ら自身の信仰を拡散しようとしたに違いない。こうして、少人数のグループは、徐々にその規模を大きくしていったのだろう。こうして、宗教集団が生まれた。

 

拡大を続ける宗教集団は、互いにぶつかり合い、宗教戦争が始まる。戦争は熾烈を極め、あらゆる種類の残虐行為が繰り広げられた。これは酷い、もう戦争はごめんだ。そう考える人たちが登場して、新たな思想が誕生する。ホッブズ、ロックを経由して、ルソーが確立した社会契約論がそれである。更に、アメリカの独立戦争フランス革命を経て、近代国家が生まれた。

 

近代国家は、憲法を制定し、立法権、行政権、司法権を確立した。そう言えば聞こえは良いが、端的に言うと、近代国家は徴税権を持つと共に、徴兵制を敷き、軍隊を持ったのである。近代国家は、曖昧さと慣習に頼っていた宗教団体とは比べ物にならない程、強固な権力を確立したのである。この時点で、宗教は国家に敗北したのである。

 

ここまでの経緯を日本に照らして考えてみよう。

 

古代日本にもシャーマニズムとしての神道があった。その後、インドで生まれた仏教が、中国を経て日本に伝えられた。つまり、日本にはローカルな神道と、ある程度グローバルな特質を持った仏教とが併存したのである。どちらも民衆の間に根強い支持があって、これを区別することは困難となった。そこで、「神仏習合」と言う現象が生ずる。神でも仏でも、どっちでもいいよ、ということ。やがて、1868年に時の政府が神道を国教として定め、これが「国家神道」となる。詳しい経緯は分からないが、多分、日本人が日本人としてアイデンティティーを求めたのだろう。外国から伝わった仏教を奨励する訳にはいかなかったに違いない。そして、1870年に「廃仏毀釈」が実施され、多くの仏教寺院や仏像が破壊された。また、1890年に施行された明治憲法の第1条は、次のように記された。

 

大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス

 

こうして、日本においては仏教が敗北し、神道が勝利したのである。仏教は、存亡の危機に陥ったと言っても良い。そして、日本は真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦に突入する。すると悲しいかな、多くの仏教徒は仏の教えを捨て、国家に擦り寄り、積極的に戦争に加担したと言う。その詳細は、次の本に詳しい。

 

仏教の大東亜戦争/鵜飼秀徳/文春新書

 

敗戦後の1947年に施行された日本国憲法においては、その第20条において、政教分離の原則が定められた。こうして神道は国教としての位置を否定され、ある意味、国家に敗北したと言えよう。

 

このように見て来ると、宗教と国家とは、相反するものであって、それは世界的に見ても、日本の歴史を見ても、同じ現象が生じたと言えよう。宗教は、国家に敗北したのである。

 

ところが、話はここで終わらない。ここから宗教の側からの反転攻勢が始まる。1964年に創価学会を支持母体とした公明党が設立される。但し、公明党は正面切って国家と対立するのではなく、政権内部に食い込むという戦略を取り、今日に至っている。公明党には特段の政策はなく、ただ、創価学会が有する宗教法人としての既得権を守ることを目的としているのではないか。あくまでも自民党に擦り寄り続ける公明党が、「下駄の雪」などと揶揄される所以である。

 

更に、1995年にオウム真理教地下鉄サリン事件を起こす。オウムは、国家と正面切って対立するという手法を採ったのである。

 

国家と宗教。この文脈において、統一教会の問題も考えるべきなのだと思う。

 

統一教会は、世界基督教統一神霊協会として1954年に韓国において設立された。そして、1959年に日本における布教活動を開始している。やがて統一教会文鮮明は、日本の岸信介と出会い、意気投合する。まず、岸信介については、米国のCIAから資金援助を受け、自由党民主党を合同させ、自由民主党を設立したという説がある。この点、私は直接的な証拠を見たことはないが、総合的に考えると、それは多分、事実だったのだろうと思う。同じように、文鮮明についても、CIAが何らかの支援をしていたのだろうと推測している。そう考えなければ、韓国の一カルトが、ここまで権力を拡大するとは考え難い。

 

少し本論とは離れるが、当時の政治状況を振り返ってみたい。1945年に日本は敗戦する。翌年の1946年には、日本国憲法が公布される。これはご案内の通り、社会契約論に起源を持ち民主主義を標榜するもので、国民主権基本的人権の尊重、平和主義を高らかに謳い上げるものだった。当時は、国際連合が設立(1945年)されたばかりで、世界中に平和主義を希求する声が多かったに違いない。そして、1947年に日本国憲法が施行されたのだが、奇しくも、その年に米国の基本政策が転換された可能性が高い。その詳細を私は知らないが、1949年に中華人民共和国共産主義国として設立されたことと密接な関係があるのだろう。米国は基本方針を転換し、日本、韓国、そして台湾を共産主義国家と対峙する防波堤としようと考えたのである。換言すれば、当初、日本の民主化を進めようとした米国は、1947年を契機としてその方針を180度変え、日本を全体主義の軍事大国に作り直そうと考えたのである。そして、そのための日本国内における代理人として、岸信介に白羽の矢が立ったのである。更にその動きは、統一教会とつながっていく。少し複雑なので、年表形式にまとめてみよう。

 

1946年: 日本国憲法公布。

1946年: 極東国際軍事裁判開始。(東京裁判

1947年: 日本国憲法施行。

(1947年に米国の方針転換があったとする説がある。)

1948年: 極東軍事裁判終結A級戦犯だった岸信介は、巣鴨プリズンから釈放される。

1949年: 中華人民共和国設立。

1950年: 朝鮮戦争勃発。レッド・パージ。

1951年: サンフランシスコ平和条約締結。日米安保締結。吉田茂

1952年: サンフランシスコ平和条約の発効と共に、戦時中の権力者が復権を果たす。

1953年: 朝鮮戦争休戦。

1954年: 統一教会、韓国で設立。

1955年: 自由党民主党が合同。岸信介自民党の初代幹事長に就任。

1957年: 岸信介内閣が成立。

1959年: 統一教会、日本での活動開始。

1960年: 安保闘争が激化。岸信介は、左翼活動を制圧するために右翼団体の他、児玉誉士夫を通じ、暴力団組織にもデモ隊制圧を依頼する。(出典:Wikipedia岸信介

日米安保を改定。日米地位協定締結。第1回日米合同委員会開催。7月15日、岸内閣総辞職

1968年: 統一教会文鮮明が韓国に国際勝共連合を設立。

 

このように並べてみると、当時の米国がいかに共産主義国の台頭を恐れていたか、そして、日本に何を期待していたのか、良く分かる。そして、米国の意向を受けた岸信介は、ある意味、その役割を立派に果たしたとも言える。そして、岸信介はその役割を1960年に、一気に完結したのである。あまりに不平等な日米地位協定も、そして、未だ闇に包まれている日米合同委員会も、その年から始まっている。ちなみに、1960年に改定された日米安保条約は、一見、日本の国民感情に配慮する内容だったが、その裏で密約が取り交わされ、圧倒的に日本に不利な条件が維持されたのである。そして、密約とセットで日米安保条約が改定されることを岸信介は知っていたとする有力説がある。

 

話を統一教会に戻そう。

 

(長くなってきたので、今回は、ここまでと致します。近日中に、続きの原稿をアップ致します。)