文化認識論

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戦争と文明(その6) 憲法と米国の対日占領政策

 

前回の原稿において、「1947年に日本国憲法が施行されたのだが、奇しくも、その年に米国の基本政策が転換された可能性が高い」と書いた。米国は、日本に対する占領政策を何故変更したのか。この問題がどうしても気になって仕方がない。そこで、いつもの本屋(ジュンク堂)へ行ってうろうろしていると、次の本を見つけたのである。

 

文献1: 戦後史の正体(1945-2012)/孫崎享創元社/2012

 

早速、購入して読み始めた訳だが、これがどうにも止まらない程、面白いのである。そして、概ね、米国が方針を変更した理由も分かったので、まずは、その経緯を振り返ってみたい。

 

まずは、日本国憲法制定の経緯から始める必要がある。

 

1945年5月8日、第二次世界大戦において、ドイツが降伏した。この時点で、日本についても敗戦がほぼ、確定的となったのである。そこで、1945年7月26日、米英支の3か国はドイツのポツダムにおいて、宣言を交付する。ポツダム宣言である。その趣旨は、日本に降伏を促すもので、日本が降伏しない場合は、その後、徹底的に攻撃を仕掛けるという強迫的な内容をも含んでいた。但し、ポツダム宣言は思いの他、先進的な内容も含んでいたのだ。ポツダム宣言は日本に対し、次の事項を要求している。

 

10項 (前略)言論、宗教、及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし。

 

12項 (前略)日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し、且つ責任ある政府が樹立せらるるに於ては聯合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし。

 

日本の一般市民にとっては、この時点で日本が降伏した方が、余程幸せだったのである。そうすれば、広島、長崎に原爆を投下されることもなかったのだ。

 

同年8月15日に、天皇陛下による玉音放送がなされ、日本国民は敗戦を知る。

 

同年8月30日、連合国最高司令官としてのマッカーサーが来日する。

 

同年9月2日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号において、日本は正式な降伏文書に調印する。この降伏文書において、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したのである。そこで、問題が生ずる。ポツダム宣言を受諾したのだから、日本にはその10項と12項を遵守する責任が生じたのだ。日本はその国民に対し、言論、宗教、思想の自由を保障し、基本的人権を尊重しなければならない訳だが、当時の明治憲法にそのようなことは書かれていない。つまり、憲法を改正する必要が生じたのである。

 

そこで、状況を察知した学者など、政府機関とは別に、換言すれば民間ベースで、憲法草案を策定する動きが生ずる。特筆すべきは、鈴木安蔵らが立ち上げた憲法研究会が1945年12月26日に公表した「憲法草案要綱」である。

 

当初、日本政府は憲法改正に消極的だったが、マッカーサーは1945年10月4日に国務大臣を務めていた近衛文麿に対し、そして、同年10月11日には幣原(しではら)首相に対し、改憲に取り組むよう促したのである。そこで、日本政府は憲法問題調査委員会を設置し、松本国務大臣を委員長に据えた。

 

同委員会が策定中だった改正案については、1946年2月1日に毎日新聞がこれをすっぱ抜いた。その内容に失望したマッカーサーは、同年2月3日、GHQのスタッフに憲法改正草案の起草を命じると共に、自らの考えを記したノートをGHQの民政局に提示する。これがマッカーサー・ノートと呼ばれるものだ。マッカーサー・ノートには、次の3項目が記されていた。

 

マッカーサー・ノート>

 

憲法調査委員会は翌1946年2月8日、憲法改正要綱をGHQに提出した。便宜上、以下「松本案」と言う。

 

そもそもマッカーサーの基本方針は、日本が2度と戦争などできないような国にすることだった。換言すると、マッカーサーは日本を貧しく、平和主義で、民主的な国にしようと考えていたのである。それに対し、松本案は相変わらず天皇に強い権限を認めるなど、とてもマッカーサーの意に沿うものではなかったのである。

 

マッカーサーは、急いでいた。と言うのも、同年2月26日には11か国によって構成される極東委員会が発足することが決まっていたからである。極東委員会が立ち上がってしまうと日本の憲法を制定する権限も同委員会へ移転される。その前に、マッカーサーは自らの手で日本の憲法を作り上げてしまおうと考えていたのである。

 

マッカーサーの命を受けて、憲法改正草案を策定したGHQは、2月13日、それを日本政府側に手交した。その際、GHQ天皇の戦争責任を引き合いに出し、日本政府側にマッカーサー草案の受諾を迫った。

 

- 1946年2月13日、マッカーサーの右腕だったGHQのホイットニー民政局長が、吉田外務大臣をはじめとする日本政府関係者と会合をもち、自分たちがつくった憲法草案を受け入れるよう強く求めます。ホイットニーは、当時日本側が作成中だった憲法草案を完全に否定し自分たちの草案を採用しなければ天皇が戦犯になるかもしれないとおどしました。 (文献1)P. 68 -

 

<1946年当時の経緯>

2月1日:  毎日新聞が松本草案(試案)をスクープ報道。

2月3日:  マッカーサー・ノートがGHQ民政局に示される。

2月8日:  GHQに松本案が提示される。

2月12日: GHQマッカーサー草案をまとめる。

2月13日: マッカーサー草案が日本政府に手渡される。

2月26日: 極東委員会発足。

11月3日: 日本国憲法、公布。

 

以後、日本側はマッカーサー草案をベースに検討を進めた。但し、このマッカーサー草案がどのように作られたのかという点については、議論がある。文献2においては、上に記した鈴木安蔵らが立ち上げた憲法研究会の「憲法草案要綱」が参考にされたと述べている。文献3は、国連憲章がベースになっていると主張する。但し、国連憲章天皇制の記述などはないし、国連憲章の基本スタンスは、集団的自衛権を認める点にある。一方、日本国憲法を素直に読めば、個別的自衛権のみを認めている。よって、国連憲章日本国憲法の共通点を認めるには、少し無理があるように思う。(この点、2015年の安全保障関連法案において、日本政府は不適切にも憲法解釈を変更し、集団的自衛権を認めることとした。)

 

私自身としては、憲法研究会の「憲法草案要綱」が参考にされているとする文献2の意見に反対すべき理由はないと思う。加えて言うならば、1928年に取り交わされたパリ不戦条約と日本国憲法9条との類似を指摘したい。どちらも戦争をする権利を放棄しているのである。1928年と言えば、第一次世界大戦終結し、国際連盟が設立され、未だ第二次世界大戦が開戦される前の時代だ。国際連盟は、カントの論文「永遠平和のために」を参考として設立されたのである。すると、カントの時代から脈々と受け継がれてきた哲学の歴史が、パリ不戦条約へと結びつき、その血流が日本国憲法にも注がれているに違いないと思うのだ。

 

1795年: カントが「永遠平和のために」を執筆。

1914年~1918年: 第一次世界大戦

1920年: 国際連盟設立。

1928年: パリ不戦条約。

1932年: アインシュタインフロイトによる交換書簡。

 

話を元に戻そう。

 

第二次世界大戦が終わると、ソ連が台頭した。

 

- 終戦後、米英とソ連は、たがいの勢力圏をどう確定するかで激しく対立するようになりました。そして「冷戦」が始まります。ソ連は占領したポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニアブルガリアアルバニアで次々と共産党政権を樹立します。これに西側諸国が反発します。(文献1)P. 94 -

 

- 1947年6月、マーシャル国務長官は、米国がヨーロッパに対して大規模な復興援助をあたえる用意があることを表明します。西欧諸国はこれに応じますが、ポーランドチェコスロバキアなどの東欧諸国は結局参加しませんでした。これで東西対立が鮮明になります。 (文献1)P.95 -

 

このような状況変化に応じて、米国の対日政策が180度変化した。1948年1月6日、米国のロイヤル陸軍長官が演説を行った。残念ながら演説を行った場所については、参考文献にもネットにも情報がない。この演説においてロイヤル陸軍長官は、将来、ソ連との間で戦争が勃発した場合、日本を防波堤として使いたい、そのためには日本の経済を復興させたい、という趣旨のことを述べた。これはGHQの政策を真っ向から否定するものだった。マッカーサーは反論したようだが、やがて権力闘争に敗れる。

 

こうして、「逆コース」と呼ばれる米国の日本占領政策の方向転換が図られ、日本は平和主義を捨て、封建的な国家建設へと向かうことになったのである。今日、GHQの姿を目にすることはない。しかし、相変わらず日本国内には5万人もの米軍が駐留し、その経費の一部を日本が負担している。米国の意向を尊重し、媚びへつらい、日本人を誘導してきたのは自民党である。台湾を巡る米中対立が先鋭化しつつある今日、日本が戦争に巻き込まれるリスクも高まっていると言わざるを得ない。

 

<参考文献>

文献1: 戦後史の正体(1945-2012)/孫崎享創元社/2012

文献2: 日本国憲法【第3版】/播磨信義 他/法律文化社/2016

文献3: 知ってはいけない/矢部宏治/講談社現代新書/2017

文献4: 日本国憲法/長谷部恭男解説/岩波文庫/2019