文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その14) 「知性」について

 

今に始まったことではないが、世の中、右を見ても左を見ても、反知性主義で満ち溢れている。戦後、GHQが採用した日本人に対する3Sと呼ばれる愚民化政策が功を奏しているのだろう。そればかりではない。統一教会は、米国のCIAが日本に投下した毒饅頭ではないのか。最近、私は本気でそう思っている。また米国は、日本人のみならず米人に対しても同様の愚民政策を講じているに違いない。権力者にとって、思考しない愚民は都合がいい。

 

この問題、政治学者である白井聡氏が面白い指摘をしている。本稿で参照するのは同氏の著作、「主権者のいない国」(文献1)である。1つ目の指摘は、「自由からの逃走」である。

 

- ファシズム分析の古典として名高いエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』によれば、自由と理性が拡大する時代であるはずの近代において、権威主義への傾倒が生ずる理由は、近代的自由の裏面には「寄る辺のなさ」「孤独」があるからだという。すなわち、前近代的な拘束からの解放こそが近代的自由の核心であるわけだが、それはそのまま、社会のなかに個人が裸で投げ出され、不安にさいなまれることを意味する、という。

 拘束を含みつつも各人に確実な居場所を与える前近代的な人間関係をフロムは「第一次的絆」と呼んだが、これが失われることによる不安は、経済不況や産業構造の転換、敗戦等の社会的混乱の際に極大化し、それがある水準を超えてしまうと、人々は近代的な自由を自ら進んで投げ捨てて権威に服従することに偽の安心を求めるようになるのだ、と。(文献1) P. 60 -

 

なんとも皮肉な現象だが、これは近代化の影響を強く受けている人々において、顕著なのではないか。すなわち、老人よりも若者、地方よりも都会で顕在化する現象なのだろう。

 

白井氏はまた、反知性主義者が「文化的エリート」を嫌悪する理由についても説明している。

 

- (前略) この憎悪の原因を、人類学者のデヴィッド・グレーバーは、著書『ブルシット・ジョブ』で、経済格差よりも実は文化資本格差の方が乗り越え困難であることに求めている。すなわち、大衆は運よく大金持ちになることはあり得ても、文化的エリートになることはできないのだ、と。だからリベラルなインテリは、「普通の人」にとって絶対に手の届かない地位を占めながら、かつ同時に道徳的な正しさまでも標榜している、度し難い特権者として憎悪されるのである。(文献1) P. 82 -

 

上記の「文化的エリート憎悪論」は、若者よりも老人、都会よりも地方において顕著に表れる現象だと思う。

 

このように考えると、居住地が都会であろうと地方であろうと、また、年齢層が高齢であろうと若者であろうと、大半の日本人が権威に依存し、右翼ポピュリズムに陥る危険を持っていることが分かる。まったくもって、絶望的な気分になるが、白井氏は次のようにも述べている。

 

- この荒廃を前にして絶望することは、知性の敗北を意味する。(中略)私たちが必要としているのは、反知性主義の起源(から)とその向かう先を正確に見透かす知性と、眼の前の権力ではなく歴史の審判を恐れるという倫理である。(文献1) P. 83 -

 

その通りだと思う。絶望してはいけない。それは弱虫のすることだ。

 

さて、戦争を回避し、平和を維持したいと思う訳だが、そのために達成すべき目標は、2つあると思うのだ。ウクライナ戦争を例に考えてみよう。まず、私たちは、プーチンのような独裁者を作って、ロシアのような加害国になってはいけない。この点は、憲法9条を守れという左派の意見が有効だろう。しかし、それだけで目標が達成される訳ではない。私たちは、ウクライナのような被害国にもなりたくはないと思っている。多くの日本人は、むしろこの点を重視しているに違いない。戦争が勃発しないように抑止力を強化すべきだという意見の根拠もこの点にある。しかし、今更日本がいくら防衛装備を強化しようと、仮に核武装をしたとしても、当面のリスク対象国である中国に勝てる見込みはない。そうしてみると、私たちが目指すべき目標は、戦争を回避するということ以外にないのである。では、どのように戦争を回避するのか。それは、外交である。

 

では、どのように外交を進めれば良いのか。そこで必要になってくるのが、知性ではないだろうか。例えば、モースの贈与論を参考にして、何らかのプレゼントを交換するという方法もある。相手国の歴史や文化を尊重することも重要だ。仮に相手国が日本を非難するようなことがあったとしても、そこは日本の方が大人になって、それを受容するだけの度量が必要だろう。やがて氷は溶けるに違いない。つまり、知性の力で相手国を上回るのである。

 

日本は世界で唯一の原爆被害を受けた国だし、世界的に見ても極めて稀な戦争放棄憲法に謳った国なのだ。平和国家としての思想を確立し、そのことを繰り返し世界に向けてアピールする。そうすれば国際世論だって、やがては日本に味方をするに違いない。第2のスイスを目指す。そういう方法だってある。

 

また、他国の政治に干渉しないということも大切だと思う。自分のすることにいちいち干渉してくる人がいれば、それは不愉快だろう。国家同士の関係にも、同じことが言える。他国のすることに干渉してはいけない。確かに、世界には酷い国があって、文句をつけたくなる。しかし、日本を良い国にできるのは日本人なのであって、中国を良い国にできるのは、中国人だけなのだ。その原則を無視して、他国に干渉すれば、最終的には戦争へと向かうことになる。

 

万が一、中国が台湾に軍事侵攻した場合でも、日本はそのことに関わるべきではない。台湾の人には申し訳ないが、日本はただ、人道支援を行えば良いのだ。夏目漱石個人主義になぞらえて言えば、「個国主義」ということになる。

 

国家としての知性を磨く。気の遠くなるような作業だが、平和を希求する限り、それはどうしても必要な作業だと思う。

 

(参考文献)

 文献1: 主権者のいない国/白井聡講談社/2021