文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その15) 「正義」について

 

リベラルと言えば、それは自由主義思想を指していると思っていたが、必ずしもそうではないらしい。法哲学井上達夫氏は、次のように述べている。

 

- 私は、「リベラルの基本的な価値は自由ではなく正義だ」という趣旨の基調論文を書きました。それが私のリベラリズム理解です。無理に日本語にするなら、「正義主義」とでも言った方がいい。-

 

なるほど。そう考えた方がしっくりくる。しかし、では「正義」とは何か。「正義」という言葉を聞いて、「暴走するトロッコ」の話を思い出す人もいるのではないか。

 

何の本で読んだのかは忘れてしまったが、「暴走するトロッコ」について、私は次のように記憶している。

 

コントロールを失ったトロッコが、急な斜面を猛スピードで駆け降りてくる。このまま行くと、トロッコの先にいる7人の人間が死んでしまう。あなたは、トロッコと7人の中間地点にいて、あなたの目の前には線路の軌道を切り替えるレバーがある。あなたがそのレバーを引くと、トロッコは進路を右に変更する。しかし、その場合、線路の先にいる別の5人が死ぬことになる。さて、あなたは軌道を変更させるそのレバーを引きますか、という問いなのだ。

 

レバーを引けば、犠牲者の人数を2人減らすことができる。従って、そうすることが正義なのだ。しかし、アンケートの結果、レバーを引くと答えた人の割合は、そうでない人よりも少なかった。

 

この場面設定には、無数のバリエーションが存在する。例えば、トロッコが直進した場合に死亡する7人の中に、あなたが愛して止まない恋人がいたとしよう。あなたは、それでもレバーを引きませんか、といった具合に。これは難しい設問であって、私などは、ほとんど回答不能になる。

 

このように考えると、「正義」とは何か、それは分からないことになる。

 

しかし、この論議は何かおかしい。では、「正義」とは、この世界に存在しないのか。そんなことはない。例えば平和主義は、「正義」ではないのか。人々の生存権を尊重し、無用の殺戮を回避し、知性に基づいて紛争を解決する。それが平和主義の骨子だ。平和主義とは正義なのだ、と私は思う。

 

そもそも、「暴走するトロッコ」の話は、あまりにも非現実的である。実際にそのような場面に出くわした人など、皆無であるに違いない。また、この話は個人の領域に関わる話であって、他方、平和主義とは国家の領域に該当するのだ。つまり、文明には様々な位相、領域があるのであって、「正義」とは国家の領域に存在するものだと考えるべきではないか。

 

野蛮から、文明へ。未成年の状態から成人へ。つまり、個々人や我々の文明は、成長することが必要なのだ。それができれば、戦争も回避できるに違いない。簡略化して、A地点からB地点への移動だと記述することにしよう。この移動には、3つの要素が必要だと思う。

 

まず、A地点に安住している人は、動き出さなければならない。これには相当なエネルギーが必要となる。「よっこらしょ」と重い腰を上げなければならない。そのためのきっかけは、いくつかあるだろう。何となく生きづらさを感じたり、何らかの挫折を経験したりすることが、思考し始めるきっかけになる場合もあるだろう。あるいは、優れた芸術に接することによって、目覚める人もいる。思想史的に言えば、文化人類学がその契機となったようにも思う。文化人類学は、主に無文字社会のアルカイックな人間の生態を研究する学問だが、その成果によって、現代人には思いもかけぬ発想なり、慣習の存在することが明らかになった訳だ。すると、それまで当たり前だと思っていたことが、必ずしもそうではないことに現代人は気付かされたのである。換言すれば、文化人類学は現代文明を相対化してみせたのだ。

 

次に、A地点からB地点へと移動するためには、その移動を支える力が必要となる。その力を表わすために、私は「知性」という言葉を選択した。言うまでもなく、昨今の反知性主義に対するアンチテーゼである。反知性主義は、米国の、マスメディアの、権力者の策略だと思う。そんなことに騙されてはいけない。

 

最後に、正しい方向へと移動するためには、目指すべき地点を定める必要がある。その方向性を指し示す用語として、私は「正義」という言葉を選択することにした。「正義」とは何か。それは国家レベルの領域に存在するもので、平和主義や基本的人権の尊重など、日本国憲法に定められている概念を、例として挙げたい。

 

きっかけ、知性、正義。この3条件が充足されれば、きっと人間は成人できる。成人した人間の集団は、国家の文明化を果たすことができる。今のところ、本当に文明化された国家を私は知らないが、それを果たすことができれば、人類は戦争という大禍を回避することだってできるに違いない。