文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その17) 「知性」とは何か

 

このシリーズ原稿の中で、私は「知性」という用語を使った。そうであるからには、「知性」とは何か、私にはそれを説明する責任があるように思う。

 

私が述べようとしている「知性」とは、例えば知能指数とか、そういうことではない。人間の能力とは、誠に多岐に渡るものであって、それを数値化することなど不可能である。また、「知性」とは、到底、学歴によって測ることなどできはしない。私は現役時代、仕事柄、多くの弁護士と接してきた。彼らの多くは、東大法学部卒である。確かに彼らは、記憶力が良い。様々な法律について、良く理解している。しかし、例えば訴訟というものは、人間の顔と同じで、千差万別なのである。そのように多様な現実を適切に理解し、如何に問題を解決へと導くか、必ずしも彼らがそのような能力に長けているとは言えない。

 

ところで、近年、リテラシーということが良く言われる。これは、メディアやネットに溢れる膨大な情報の中から必要な情報を抽出すると共に、その真偽を正確に認識する能力のことである。フェイク・ニュースが溢れる今日において、これに対抗する重要な概念である。

 

実は、このリテラシーという言葉には、相当な普遍性がある。例えば、統一教会に騙されて、高価な壺を買わされてしまう人がいる。統一教会に限ったことではない。他の宗教団体だって、同じようなことを繰り返している。騙されてしまう人には、リテラシーが不足しているのだ。

 

自民党を支持している人もいるが、私に言わせれば、大なり小なり彼らも騙されているのだ。もっと言えば、学校教育だって、欺瞞に充ちているのではないか。更に言えば、法律の中にも悪法は無数に存在するのである。いや、100点満点の法律など、存在しないと思った方が良い。あの日本国憲法でさえ、いくつかの難点を抱えているのだ。かく言う私も、今日まで多くの人々に騙されてきた。

 

このように考えると、このシリーズ原稿の冒頭に記したプラトンの「洞窟の比喩」を思い起こさずにはいられない。私たちは、あたかも鎖に繋がれた囚人のように、暗い洞窟の中で影絵を見せられているのだ。

 

私たちは、洞窟から脱出するために、努力を怠ってはいけない。リテラシーという流行り言葉は、このようなプラトンの主張へと結びつく。つまり、リテラシーは「知性」の一部なのだ。

 

もう少し、大きな枠組みで「知性」について考えることもできる。「知性」を磨くためには、まず、「私」から出発しなければならない。

 

実を言うと、私は今まで、多くの嘘をついてきた。誠に恥ずかしい話ではあるが、私は、大噓つきなのである。しかし、この世にたった1人だけ、嘘をつけない人間がいる。それが「私」なのである。私は大嘘つきだが、「私」に対してだけは、嘘をつけないのだ。また、権力は人の目を眩ませるが、「私」の内部に権力が存在する余地はない。「私」の中にこそ、倫理が存在するのである。だから、思考する、知性を磨くためにはいつだって「私」から出発する必要があるのだ。

 

「私」はどう生きたいか、「私」はどうありたいか、そのような価値観を確立することができれば、そこから国家像を導くことが可能となる。「私」から国家へ。これが哲学の基本構造なのではないか。国家のあり方を思考した哲学者は少なくない。先に述べたトマス・ホッブズもそうだし、社会契約論を唱えたルソー、三権分立を主張したモンテスキューなど、枚挙にいとまがない。

 

「私」から国家へ。これが哲学の基本構造だとして、その土台は、多分、古代ギリシャにおいて確立されたのだと思う。ソクラテスプラトンである。

 

ソクラテスは、「自らの魂に配慮せよ」と主張したのであって、彼は「私」に固執したのである。また、ソクラテスは徹頭徹尾、パロール話し言葉)を用いた。本は一冊も書いていない。そして、ソクラテスの弟子であるプラトンは、エクリチュール(文字言語)を用いて多くの著作を残したのである。「ソクラテスの弁明」も「国家」も、プラトンの著作である。つまり、「私」から出発したソクラテスの思想は、プラトンにおいて「国家」へと到達したのである。ああ、何という壮大なスケールなのだろう!

 

ちなみに、国家を成立させるためには、憲法や法律が必要となる。そして、それらは文字で書かれる必要があるのだ。このように考えると、私たちはパロールから出発して、エクリチュールを目指す必要がある。

 

ソクラテスから、プラトンへ。

 

パロールから、エクリチュールへ。

 

「私」から、国家へ。

 

人が成長するということの意味が、ここにあるのではないか。

 

このように考えると、「知性」という言葉の意味も、自ずと明らかになる。「知性」とは、「私」から出発して国家を構想する能力のことなのだ。