文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その20) あとがき

 

1956年生まれの私は、リアルタイムで戦争を経験したことがない。それでも物心づいた頃から今日に至るまで、戦争の恐怖を叩きこまれ、戦争が引き起こす強烈な同調圧力の下で生きてきたように思う。戦争が起こるかも知れない。だから、日本人は団結しなければならないのだ。そう主張する全体主義的な圧力の下、私たちの暮らし、それ自体が抑圧されているのである。戦争を知らない世代であっても、決してそのような圧力と無縁ではいられない。

 

人間の集団は、権力を生み出す。権力は必ず破綻する。破綻の究極的な形態、それが戦争だと思う。別の見方をすると、人間の文明は、実際の戦争や、それが勃発するリスクを前提として、成り立っているのではないか。

 

ところで私たちは、文明のグランドデザインを持っているだろうか。基本構想と言っても良い。私の見方は、消極的である。それがないから、例えば日本人は、事あるごとに右往左往しているのではないか。2011年の東日本大震災とそれに続く原発事故。そこから日本人は何を反省し、何を学んだのだろう。今回の統一教会問題にしても同じだ。自民党は、反日の韓国カルト集団である統一教会を解散させることができるのだろうか。環境問題があり、貧困問題もある。日本の社会は成長するどころか、ますます、後退しているに違いない。

 

思想史の観点から考えると、まず、モダンがあった。理性中心主義とも呼ばれるモダン思想は、今から思えば、物事を真っ直ぐに見ていたように思う。その後、心理学と文化人類学が登場する。心理学は、人間の理性を相対化した。そして文化人類学は、人間の文明自体を相対化したのである。その後に出て来たのが、文明論だと思う。相対化された文明を、根源から問い直そうというのが文明論だ。文明論者としては、まず、ミシェル・フーコーを挙げることができる。文化人類学者が、無文字社会を研究するように、先入観を捨て、西洋社会それ自体を根本から問い直したのが、フーコーの仕事である。「監獄の誕生」などが、これに当たる。もう1人、遊びや戦争について研究したのが、ロジェ・カイヨワである。そして、彼らの「根本から問い直す」という態度は、ギリシャ哲学に通ずる。ちなみに、フーコーとカイヨワは、同時代を生きたフランス人である。

 

ロジェ・カイヨワ: 1913-1978

ミシェル・フーコー: 1926-1984

 

私は、このシリーズ原稿において、正義とか知性という言葉を用いた。現代においては、ほとんど死語となった言葉である。そのことは百も承知の上だ。現代は、反知性主義の時代なのである。しかし、反知性主義は、知性という言葉を正確に定義できているだろうか。反学歴主義というのであれば、それは私も賛成である。また、本当に私たちに知性は必要ないのだろうか。知性という言葉をもってしか表現しようのない、人間を人間たらしめているある力を、私たちの文明は必要としているのではないか。その力なくして、私たちは戦争を回避することができないのではないか。

 

文明のグランドデザイン。今こそ、それを構想すべき時代なのだと思う。