文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

猫と語る(第6話) 「私」の発見

 

秋の訪れを告げるような台風がやってきて、その翌日の空は高く、穏やかだった。私はにゃんこ村へ行き、いつものベンチに座っていた。私が猫たちを個体識別しているように、猫の側も人間を1人ひとり、識別している。猫おじさんである私の姿を見つけると、猫たちはどこからともなく集まってくる。三毛猫母さんが2匹の子猫を引き連れてやってきた。トントン猫のトンちゃんもやってきた。そして、私の手を負傷させたハチもやってきた。私は、ハチに不愉快な感情を抱いていたが、そんなことは大人げないと思い直していた。

 

まず、紙の皿を地面において、カリカリを注ぐ。そして、コンクリートの上に手早く何か所かにカリカリを小分けにして置いた。猫たちは、ムニャムニャと言いながら、おいしそうにそれらを食べた。

 

ところで私の目標は、5キロの減量である。既に2キロまでは、達成した。しかし、足踏み状態が続き、最近は一向に体重の減る兆しが見えない。同じことをしていては、これ以上の成果は見込めない。何か、新しいことを考えなければ・・・。

 

カリカリを食べ終えた猫たちが、1匹、また1匹と何処かへと去っていく。入れ替わりに花ちゃんが現われ、私の足元で一声、ニャーと鳴いた。私は、包装しているビニールを破き、手に持ってカツオの切り身を花ちゃんの口先へと差し出した。花ちゃんは、それをペロペロと舐め始めた。どうやら花ちゃんは、カツオをチュールと勘違いしたようだった。

 

- 花ちゃん、これはペロペロするんじゃなくて、カミカミするんだよ。

 

私はそう言って、カツオの切り身を皿の上に置き、花ちゃんの足元に差し出した。花ちゃんは顔を上下に揺らして、それをおいしそうに食べた。私は、食べ終えた花ちゃんを抱え上げ、ベンチの横に座らせた。

 

- おじさん、それじゃあ話の続きを聞かせて。

- うん。前回までで、生活共同体と利益共同体の話をしたね。生活共同体の核心は、人間の身体にある。体があって、それに食物を与える、衣服を着せる、家に住まわせる。それらの方法や考え方を中心に、共同体が成り立っている訳だ。そこに論理性は存在しにくい。理屈じゃなくて、ただ、延々と続く時間の中で、生活を営む。それが生活共同体であって、そこには必然的に同調圧力が存在する。次に利益共同体だけど、その中心にあるのは労働とその対価としての貨幣だ。そして、利益共同体は序列と分業を基本とした組織によって運営される。会社や役所は、そのような組織によって成り立っている。更に言うと、この2つの共同体を結ぶ働きが、人間社会には存在する。それが、教育なんだ。人間の社会には学校と呼ばれる機関があって、特に未成年者はそこへ通って勉強することが求められる。学校には先生がいて、実に様々なことを教えてもらえるのさ。

- それは素敵なことじゃない?

- それが必ずしもそうではないんだ。人間の子供は、様々な個性を持って生まれてくる。それは社会に適合する場合もあれば、そうでない場合もある。そんな子供たちを1人の例外もなく、社会に適合させて、会社や役所で働けるようにしようとする。それが、現在の教育システムなのさ。社会的な秩序からはずれるような個性は、痛めつけられる。そういう仕組みになっているから、学歴の高い者は、利益共同体の中で尊重されるんだ。それが、学歴主義を生む。俺は、そんなシステムは馬鹿馬鹿しいと思うけどね。正直言って、俺は学校が嫌いだった。

- 人間の世界って、だんだん嫌になってきたわ。

- そうだよね。でも、俺の話はまだ終わっていない。

- ・・・。

- ここまでで、生活共同体、利益共同体、そして教育の話をしてきた訳だけど、俺はそんな所に人間の希望があるとは思わない。でも、それらを心地よいと感じる人が多いのも事実なんだ。1つのタイプとしては、金持ちやエリートを挙げることができる。例えば、金持ちの家に生まれて、十分な教育を受けて学業エリートになる。もしくは、利益共同体の中で出世する。そんな人たちは、このシステムを維持したいと思っているに違いない。一方、貧困な家庭に育ち、エリート教育を受けることもなかった者たちは、忙しく働かなければならないので、社会システムに疑問を持ったりはしない。このような人たちを大衆と呼ぶことにしよう。そうしてみると、金持ちやエリート、そして大多数の大衆が、このようなシステムを支持することになる。特に統計がある訳ではないので大雑把な話しかできないけれど、そのように現在の社会システムを支持する人は、全体の9割程度だろうと思う。でも、残る1割の人は、このシステムの外を構想するんだ。そのことを指して、哲学の世界では「主体」と言う。そして、文学の世界では「私」と言う。例えば「私小説」といったように。

- うん。それは、個人のことなのね。

- そうなんだ。自分が所属している共同体の他にも世界がある。その世界の存在に気づいた人が、「私」という未知なる領域を発見することになる。その新たなる発見に立ち向かっていこうとする人には、必ず、何らかのきっかけがあると思う。それは、共同体の中で生きていくことへの疑問であったり、違和感であったり、挫折だったりする訳だ。しかし、それらとは異なるきっかけに出会う場合もある。

- 何かしら?

- それが、芸術だと俺は思う。芸術の本質は、現実の世界を普通とは異なる方法で、写し取ろうとする行為のことだ。例えば絵画。画家は、常に対象を独自の視点から見ようとしている。そして、その感性がどこからくるかと言えば、それは「私」の中にしかない。つまり、芸術作品を生み出そうとする努力は、自らの心に働き掛ける以外に方法がないことになる。そこで、優れた芸術作品から感銘を受けた人は、芸術家が向き合ったであろう「私」というものに共鳴するんだ。そして、その優れた芸術家と同じように、自分の中にも同じような「私」というものが棲息していることに気づく。

- 芸術っていうのは、そんなに素晴らしいものなの?

- うん。素晴らしいんだよ。そして、芸術作品というのは、必ず、人間がたった1人で取り組む孤独な作業から誕生する。画家は、1人で絵を描く。小説家もそうだ。音楽だって、最初は誰かが、たった1人で作曲するところから始まるって訳さ。

 

私は花ちゃんを膝の上にのせて、彼女の背中を撫でた。

 

- なんだか、今日のおじさんは、今までで1番元気そうに見えるわ。

- それは良かった。もう少し話を続けてもいいかい?

- どうぞ。

- この「私」というものを最初に発見したのは、古代ギリシャの哲学者だった。それから永い年月を経て、人間は近代という時代を迎える。そこで、近代的な自我というものを構想した。ところが、いくつかの事情があって、この構想は挫折したんだ。時代はどんどん複雑化して、混沌としてきた訳だ。そこで、この「私」という問題は新たな段階を迎えることとなった。というのは、共同体から放り出される人が増えたってことなんだ。まず、生活共同体の根幹は、家父長制にあった訳だ。つまり、家族の中で一番偉いのは、最年長の男性だとする制度のことなんだけど、女の側から何で男が偉いのかという疑問が提出された訳だ。そして、職業だって、選択の自由が保障されるべきだという考え方が台頭した。こうして、生活共同体が崩れて、そこから外に出て行く人が増えた。今はコンビニもあるから、必ずしも家族で同じ食事をとる必要すらなくなった。

- コンビニでは、カリカリだって売っているものね。

- そして、利益共同体については、かつての終身雇用制が崩れ、非正規雇用という形態が生まれた。非正規の人は、企業や役所から簡単にクビを切られてしまう。その共同体のインサイダーになることが禁じられる。このようにして、望んだ訳ではないのに、共同体から放り出されてしまった人たち、スポイルされる人たちが急激に増えたって訳さ。

- その人たちは、息苦しい共同体から解放されて幸せじゃないの?

- 共同体から解放されること自体は、確かに幸せかも知れない。しかし、貧困という課題が突き付けられるって訳さ。生活共同体がなければ、頼れる人がいない。利益共同体の内部に潜り込まなければ、お金を稼げない。そこで、家を持たないネットカフェ難民や、ホームレスと呼ばれる人々が急増している。みんなで労働を分担する、お金も分かち合う。そういう社会だったら、こんな問題は起きないのにね。

- 困ったわね。どうすればいいのかしら?

- うん。そこで、共同体を復活させよう、共同体に回帰しようという主張が出てくる。1つには、宗教の台頭を挙げることができる。例えば、いくつかのカルト団体は家父長制の復活を目指している。この問題は後で述べることにして、ここでは社会学という学問について、言っておきたいことがあるんだ。社会学っていうのは、多様性のもとでの共同性を探究する学問だと言われている。俺の理解としては、人間を集団として見て、そこに潜む原則を発見しようとする試みだということになる。しかし、その方法では「私」というものが視野に入ってこない。

- ちょっと、猫の私には難しい・・・。

- ごめん。でも、これだけは言っておきたい。社会学は、芸術を語ることができない。つまり、そうではなくて、俺は、新しい「私」を発見するべきだと言いたいんだ。近代的な自我がダメだとするなら、人類はもっと新しくて、しなやかで、強固な自我の確立を目指すべきだと思う。でも、この話を深めるためには、そろそろ魂について、考える必要がありそうだね。

- 魂って、何?