文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

猫と語る(第8話) ミッシェルの悲劇

 

花ちゃんの呼び掛けに応じて、黒三郎は梢から舞い降りてきた。

 

- もちろん、オイラにも言いたいことはある。

- 何だ、言ってみろ。ニャー!

- お前らは、何故、カラスを嫌うんだ? オイラたちが、黒いからだろう。お前たちは、他の生き物を見た目で判断している。

 

黒三郎はそう言って、チョンチョンと飛び跳ねた。私も、黙ってはいられなかった。

 

- 違うよ。お前たちカラスは、人間に対して害悪を及ぼす。だから嫌いなんだ。例えば、お前たちは、人間が捨てたゴミを漁るだろう。そして、そこいら中に、ゴミをまき散らす。何でそんなことをするんだ?

- おいおい、そこのオッサン。オイラたちが好きこのんで、ゴミを漁っているとでも思っているのか。このドアホ! ゴミの中には、ほとんど腐ったものしか残ってない。そんなもの、オイラたちだって食べたい訳じゃない。本当は新鮮でおいしいものを食べたいと思っている。しかし、人間が捨てたゴミでも食べなければ、オイラたちは生きていけないんだ。オイラたちにも最低限、生きる権利はある。違うか!

 

しばし、私は考え込んでしまった。フムフム。確かに、カラスにも生きる権利はある。そう思った。

 

- 黒三郎、お前たちはいつも腹を空かせているのか?

- そうだ。カァー、カァー。

- お前は、今も腹が減っているか?

- もちろんだよ。

- カリカリならあるけど、食べたいか。

- カァー!

- 分かった。でも、この前みたいに大きな声を出して仲間を呼ぶな。そんなに沢山は、持っていないんだ。

 

私は、花ちゃんが使った後の紙皿に、カリカリを一握りほど、盛り付けてやった。黒三郎は、おいしそうにそれをついばんだ。

 

- どうだろう、黒三郎。誰にでも最低限、生きる権利はある。このテーゼから出発すれば、俺たちは1つの思想を作り出すことができる。例えば、アフリカのサバンナで、ライオンがシマウマを殺して食べる。この行為は許されるか。もちろん、腹を空かせたライオンは、シマウマを食べなければ生きていけない。どうだろう?

- 生きるために仕方がないのだから、その行為は許されると思う。カァー。

- そうだね。

 

すると、険しい表情をした花ちゃんが一歩、踏み出して言った。

 

- 黒三郎! それでもあたしは、お前たちカラスが嫌いだ。お前たちはいつだって、高い所にいて、誰かが失敗するのを見て笑っている。そして隙さえあれば舞い降りてきて、食べ物を奪っていくんだ。だから、冷笑主義者だって言われるんだよ! 猫には愛があるけど、お前たちカラスには、愛がないんだよ!

- そんなことを言ったって、それがカラスのライフスタイルなんだから、仕方がないじゃないか! 

 

黒三郎は、羽をバタつかせて、不満そうに言った。

 

- なあ、黒三郎。誰にでも冷笑主義から脱却する方法はあると思うよ。それは、自分から何かに参加してみる、自分でやってみるってことなんだ。成功すれば、それは自信につながるし、失敗したとしても、そこから何かを学ぶことができる。自分でチャレンジしない者は、成長できないんだよ。

 

私がそう言い終わるか終わらないうちに、大きな羽音をたてて黒三郎が飛び立った。そして、花ちゃんがシャーと叫んだのだった。見ると1頭のイノシシが私を目掛けて突進してくる。私は、急いでベンチの後ろ側へ身を隠した。目にも止まらぬ速さで、花ちゃんがイノシシ目掛けて飛び掛かった。花ちゃんの猫パンチが、イノシシの右頬にヒットした。しかし、それはまるで効いていなかった。花ちゃんは空中で回転した後、体操選手のように見事に着地を決めた。イノシシは面食らったのか、足を止め、肩で息をしていた。

 

- ねえ、ミッシェル。あんたの気持ちは、分かる。でも、全ての人間が悪い訳ではないの。中には、いい人間だっているのよ。このおじさんは、悪い人じゃない。

 

ミッシェルと呼ばれたイノシシの眼から、大粒の涙がこぼれた。彼女がやってきた方角からキィーキィーと鳴きながら、3匹のうり坊たちが走ってくるのが見えた。ミッシェルは踵を返して、うり坊たちの方に向かって歩き出した。

 

- ああ、驚いた。花ちゃん、それにしても日本に住むイノシシの名前がミッシェルというのは、少しおかしくないか?

- あのね、例えば赤い木の実があったとして、それをリンゴと呼ぼうが、アポーと呼ぼうが、何の問題もない。それが言語の恣意性ってものなのよ。だから、彼女の名前がミッシェルであることに問題はないの。

 

私の頭は混乱した。まさか花ちゃんは、ソシュールの一般言語学を知っているのだろうか。それにしても一体、にゃんこ村で何が起こったというのだろう。羽音が聞こえ、黒三郎が再び降りてきた。彼が見ている方角に顔を向けると、立派な体格をしたオスのイノシシがゆっくり歩いてくるのだった。彼はミッシェルよりも一回り大きい。彼の口元には、2本の長い牙が生えている。私は、身構えた。

 

- あら、猪ノ吉だわ。彼は、ここら辺に住むイノシシグループのリーダーよ。大丈夫。彼は余程のことがない限り、手荒なことはしないわ。猪ノ吉さん、こんにちは!

 

花ちゃんの呼び掛けに、猪ノ吉は小さく頷いた。

 

- 猪ノ吉さん、ここで何が起こったのか、このおじさんに話してあげて。

- うむ。しかし、この人間は信用できるのか?

- 大丈夫よ。この人はいつもここへきて、私たち猫にカリカリをくれるの。チュールも。

 

花ちゃんにならって、私も猪ノ吉に挨拶をしてみた。

 

- 君の名は、猪ノ吉っていうんだね。お会いできて光栄だ。ミッシェルは何故、俺を襲おうとしたのか、彼女の身の上に何があったのか、良かったら教えてくれないか。

 

猪ノ吉は、じろりと私の顔を見上げた。

 

- では、話をしよう。少し長くなるから、あんたはベンチに座って聞いてくれ。

 

私は、ベンチの前に進み出て、腰を下ろした。猪ノ吉も私の左前に来て、腹ばいになった。猪ノ吉は低く、威厳のある声で話し始めたのだった。

 

- 箱罠っていうものがある。これは鉄でできた檻のようなものだ。中にはイノシシが好む餌が置いてある。その餌は、とてもいい匂いがするんだ。腹を空かせたイノシシが、その檻の中に入って餌を食べるためには、どうしても檻の中の踏み板を踏むことになる。するとその瞬間、自動的に後ろの扉が落ちて、そのイノシシは閉じ込められるって寸法だ。もう何年もそんなものは、設置されていなかったが、どういう訳か最近、人間がそれを仕掛けたんだ。あれは、先週のことだった。その箱罠に、一頭のイノシシがつかまってしまった。ミッシェルの夫だ。慌てた彼は、鉄の檻に体当たりをくらわせた。ガシーンという音が響く。しかし、鉄の檻はびくともしない。身体をぶつける度に、少しずつ彼の皮膚がやぶけ、血が流れた。ワシらは、近くで彼の様子を見ていた。ミッシェルと彼女の子供たちもだ。ワシは、もう止めろと彼に言った。しかし、彼にはそうする以外、助かる道はなかったのだ。ミッシェルは、檻にすがって泣いた。彼はミッシェルに、ここにいては危ないから、子供たちを連れていつものねぐらへ帰れと言った。ワシもミッシェルにそうするように言った。やがてとっぷりと日が暮れて、夜になった。静かな夜だった。波の音だけが、ザワザワと聞こえていた。そして時折、ガシーンというあの音が、微かに聞こえてきた。夜が明けると、人間たちがやってきた。ワシは、人間たちに気づかれないよう、遠くから見ていたんだ。人間たちは鉄の棒を使って、ミッシェルの夫に電気ショックを与えた。彼は、倒れた。彼の両足がヒクヒクと動いたが、それも数秒のことだった。人間たちは、彼が死んで動かないことを確認すると、彼の体をロープで縛り、クルマの荷台に乗せて、どこかへと運んで行った。

 

猪ノ吉は私の眼を見たようだったが、私は彼の眼を見ることができなかった。

 

- 人間って、最低だな。

 

そう言い残して、黒三郎が飛び立った。