文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

猫と語る(第13話) 黒三郎の魂

 

- そろそろ、ワシらも出発するとしよう。

 

猪ノ吉はそう言って、南の方角に向けて歩き出した。黒三郎は、何も言わずに飛び立った。私は背中に花ちゃんを乗せたまま、着いていくことにした。猪ノ吉は、うり坊たちのペースに合わせて、ゆっくりと進んだ。海岸沿いにしばらく行くと、崖を登る道があった。明らかに人間が作った道だった。傾斜を緩めるために、その道はジグザグに斜面を登る格好になっていた。所々、階段状に丸太が置かれていた。

 

崖の中腹に家があったが、人の住んでいる気配はなかった。

 

一行は30分程を掛けて、崖の上に出たのだった。そこは駐車場の南端で、桜の老木の近くだった。広大な駐車場の中央に1本の街灯が立っていて、ぼんやりと辺りを照らしていた。遠くに私のクルマが見えた。猪ノ吉は立ち止まって、それぞれのメンバーの顔色を覗き込んだ。老夫婦は、少し息が上がっているようだった。

 

どこからともなく、黒三郎が舞い降りてきた。

 

- 猪ノ吉。オイラも一緒に行こう。

 

黒三郎がそう言うと、猪ノ吉は怪訝な顔をして、黒三郎の顔を見つめた。

 

- ぷんぷく山へ行くことを提案したのはオイラだし、オイラはお前らとは違って、空を飛ぶことができる。つまり、ぼたん村の人間を監視したり、ぷんぷく山へ向かう正しい道を示したりすることができる。空から見れば、そんなことは簡単なんだよ。但し、オイラが活動できるのは、昼間に限られるけどね。夜はあまり眼が見えないんだ。鳥眼だからさ。

 

猪ノ吉は、黒三郎の方に向き直って言った。

 

- それは助かる。礼を言わせてもらおう。

 

黒三郎は、気恥ずかしそうにチョンチョンと飛び跳ねた。

 

- ちょっと待ってくれ。礼には及ばない。おっと、そこに突っ立っている人間のオッサンよう。

- うん。

- あんた、しばらく前にこう言ったよな。猫にも魂があるって。

- ああ。言ったさ。

- 猫に魂があるんだったら、カラスにだって魂はあるよな。

- そうだ。カラスにだって魂はある。

- つまり、そういうことなのさ。カァー。オイラはオイラの魂の声を聞いたんだ。すると、猪ノ吉たちに着いて行くべきだって、オイラの魂がそう言ったのさ。それが正しいことだってね。もちろんオイラは、お前らイノシシを支配したり依存したり、そんなつもりはない。礼を言われたり、何かの見返りを期待したり、そんなこともない。ただ、オイラはオイラの魂の声に忠実でありたい。そう思っただけなんだ。

 

花ちゃんは、私の背中から飛び降り、黒三郎の方に駆け寄って言った。

 

- 黒三郎。いつかは、あんたの悪口を言って申し訳なかったわ。あんたはもう、冷笑主義者なんかじゃない。ちゃんと、世界との関わりを持とうとしている。にゃん。

 

私も、花ちゃんの言葉を引き継ぐように言った。

 

- そうだね、黒三郎。自分の魂の声を聞くってことは、いかなる権威にも依存しない、いかなる先入観や固定概念にも拘束されないってことなのさ。お前は成長した。

 

ミッシェルと不良青年が、私の言葉にうなずいたのだった。そして、猪ノ吉が言った。

 

- 黒三郎、それでは俺の背中に乗れ。お前は地面を歩くのが苦手だろう。

 

黒三郎は少し羽ばたいて、猪ノ吉の背中に乗った。不安定な感じではあったが、黒三郎はなんとかバランスを保つことに成功したようだった。

 

- よし、出発だ。進め、進め、カァー、カァー、カァー!

 

一行は道路を渡り、いろは山へと続く道を登り始めた。花ちゃんと私は、彼らを道路の手前で見送った。辺りはとても静かだったが、時折、黒三郎の声だけが響き渡った。しかし、その声も次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 

静まり返った駐車場に残されたのは、花ちゃんと私だけだった。

 

- おじさん。チュール持ってる?

- ああ、持ってるよ。

 

私はそう答えると、しゃがみ込んで花ちゃんの口元にチュールを差し出した。花ちゃんは上手に舌を使って、それを舐め尽くした。

 

- おじさん。

- うん。

- みんないなくなっちゃったね。

- そうだね。

- ねえ、おじさんは強く生きて。魂を燃やし尽くして。せっかく人間に生まれたんだからさ。さようなら。

 

そう言って、花ちゃんは私に背を向けて歩き始めた。

 

- 花ちゃん。また、会えるかい?

 

花ちゃんは一瞬立ち止まったが、私の問いに答えることなく、闇の中へ消えていったのだった。

 

数日後、私はにゃんこ村を訪れた。道路に面して設置されていたコンビニの看板は、撤去されていた。店内を覗くと、全ての棚をシートが被っていた。床にもシートの上にもほこりが積もっていて、長い時間が経過しているように見えた。

 

いつものベンチを探したが、それは朽ち果てていた。しばらく待ってみたが、トントン猫のトンちゃんも、三毛猫母さんも、そして花ちゃんも、誰も現れなかった。フェンス越しに崖の下を覗いてみたが、イノシシの姿はなかった。ただ、樹上にはカラスがいたので、呼び掛けてみた。

 

- おおい、黒三郎!

 

しかし、カラスはアーアーと鳴くばかりで、私の言葉を理解しているようには見えなかった。それ以来、私が動物たちと言葉を交わすことはなかった。