それから20年が経過した。私の髪はすっかり白くなり、腰も曲がってしまった。痛くて、真っ直ぐには伸ばせないのだ。外出する時には、ステッキを手放せなくなった。
漁港近くのアパートから、地方都市の中古マンションへと引っ越しもした。クルマの運転が不安になったのが、その理由である。地方都市と言っても、賑わっている場所ではない。しかし、バスを利用すれば日常生活に困ることはないのだ。引っ越し作業が終わった時点で、クルマは売却した。
そう言えば、ぷんぷく山を目指した猪ノ吉たちは、どうしただろう。無事にぷんぷく山へ到着して、幸せに暮らしているだろうか。時折、そんなことを思うのだが、私にはそれを知る術がなかった。仮にそうだったとしても、猪ノ吉はとっくに寿命を迎えているに違いなかった。
かつてはダイエットを気にしていた訳だが、私の体重は当時のそれに比べて15キロは減少した。ダイエットに成功したとか、そういうことではなく、ただ、加齢と共に筋肉量が低下したのだ。大好きだったビールも、かつて程、おいしいとは感じなくなった。
近所の食堂で食べる料理は、どれも脂っこく、私の口には合わなかった。しかし、探してみると私のような高齢者の好みの味で、料理を提供する場所がある。それは、老舗デパートの最上階にある食堂である。客たちのほぼ100%が高齢者で、昔ながらの料理が提供されるのだ。ビールだって、キリンのラガーである。昭和の時代を感じさせる、特別な空間である。
その日、私は、そんな食堂で昼食を済ませたのだった。生ビールを1杯飲み、細麺のラーメンを食べた。そしてふと、本屋を覗いてみようという気になった。何しろ老眼が進み、ここ10年は本というものを読んでいない。どうだろう。かつて私が一生懸命読んだ哲学書などは、今も置いてあるのだろうか。
食堂の1つ下のフロアが本屋になっている。エスカレーターで降りて、私は本屋の中を散策し始めた。かなり大きな本屋で、中央の辺りにはずらりと新刊本が並んでいた。そして、学習書があり、趣味の本があり、コミックがあり、写真集があった。奥へ奥へと進むと、西洋思想というコーナーがあった。私は、ゆっくりと近づきながらミシェル・フーコーの本を探した。それは書棚の上の方に、きちんと並べられていた。嬉しくもあり、懐かしくもあった。フーコーの遺作、「性の歴史」が1巻から4巻まで、順番通りに並べられていた。背表紙を見ながら、各巻の内容を思い出そうとしたが、思い出せることは少なかった。ただ、哲学に生涯を掛けたフーコーの人生模様が、私の脳裏をよぎった。
店内の静寂を破るように、コツコツと足音が聞こえた。見ると1人の女子高生が、こちらに向かって歩いてくるのだった。彼女は白いハイソックスとチェック柄のスカートを身につけていた。ショートカットの髪が、よく似合っていた。彼女は私の隣に立つと、書棚を眺め始めた。視線の先にはフーコーがあった。最近は、こんな若い人でもフーコーを読むのだろうか。そんなことを思っていると、彼女は書棚から1冊を取り出して、頁をめくり始めた。それは「言葉と物」だった。思わず、私は彼女に声を掛けたのだった。
- お嬢さん、お若いのに随分と難しい本に興味があるんだね。
- ええ。
彼女は、迷惑がる素振りを見せるでもなく、そう答えた。
- 余計なお世話だと思いはするが、お嬢さん、フーコーは何冊かお読みになっているのかな? 実は、あなたが手に取っているその本は、フーコーの中でも難解で有名な本なんだ。
- あら、そうなの? フーコーなんてあたし、今まで読んだことないわ。
- すると、哲学関係の本は?
- 哲学って、何だか難しそうじゃない。あたしは哲学系の本なんて、ほとんど読んだことがないの。おじいさん、哲学って何が面白いのかしら?
- うん。面白くはないかも知れないね。
- でも、おじいさんはさっきから、フーコーの本ばかりを眺めているわよね。それは何故なの?
- そうだな。そもそも、人間が当たり前だと思っていることは、実は、当たり前ではない。哲学を学ぶと、そういうことが分かるんだよ。例えば、「ソクラテスの弁明」は読んだことあるかい?
- うん。それならある。
- あれを読むと2400年前の古代ギリシャがいかに狂っていたか、よく分かるはずだ。そして、例えばここにあるフーコーの「監獄の誕生」だが、これを読むと18世紀のフランス社会がいかに間違っていたのか、知ることができる。そうすると、現代の日本社会だって、狂っていないはずがないんだ。政治も、宗教も、経済も、教育も、裁判制度も、全てが間違っている。
- でも、何故、そんなことを学ばなければいけないのかしら?
- それはね、現代文明が危機に瀕しているからさ。このまま行くと、大きな不幸がやってくるに違いないからなんだよ。その大きな不幸が何なのか、それは俺にも分からない。それは戦争かも知れないし、天災かも知れないし、環境や原発の問題かも知れない。しかし、このままではいけない。それだけは、確実だと思う。
- それじゃあ、おじいさんはどうすればいいと思うの?
- うん。何か1つの事柄を変えればいいって訳じゃないと思う。人間の文明の全てを作り直す必要があると思う。それは革命とか、そういうことじゃない。革命を起こしたって、変わるのは権力だけで、文明の基本的な構造は変わらない。必要なのは、文明のグランドデザインを新たに作り上げることだ。そのためのヒントが、哲学にあるって訳さ。例えば、この本のタイトルにはこうある。
そう言って、私は、「性の歴史」の第3巻を指差した。
- 「自己への配慮」。これはソクラテスの思想に通じている。自らの魂に配慮せよってことだ。そこから出発するべきだと、フーコーは考えていたに違いない。でも、そこに留まっていてはいけない。
- ちょっと待って、おじいさん。あたし、その話、前に聞いたことがあるような気がする。魂から真理へ。そういうことじゃなくって?
猫撫で声でそう言うと、彼女はいたずらっぽい眼で私を見上げた。
「猫と語る」おわり