太古の昔から、人間には生活があった。いや、人間がまだサルだった時代から、生活は存在していたに違いない。生活の中心は、身体にある。何かを食べて、セックスをする。出産して、子育てをする。衣服を着る。住居を作る。最近の事例で言えば、グルメや健康オタクなどというブームまで存在するが、いずれもその中心には人間の身体がある。スポーツも同じだ。1人で生きていくことは、なかなか大変なので、人間はこの生活というものを共同体の中で営む。このような営為を象徴させるため、ここでは「身体」という言葉を用いる。
やがて、この身体に象徴される生活や共同体に異議を唱える者が登場する。その理由は様々だろうが、共同体の内部においては支配や依存の関係が存在し、そのような煩わしさからの逃避を求める者がいたであろうことは、容易に想像がつく。ある者は山に籠り、またある者は書斎や研究室に閉じ籠って、共同体からの離脱を試みる。そして多くの場合、身体を否定し共同体を離脱した者は、何らかの「知」の創造へと向かう。例えば古代ギリシャにおいては、生活に関わる煩雑な仕事は奴隷に任せることができたので、「知」へと向かう市民が少なくなかった。こうして、ギリシャ哲学が生まれた。
「知」には様々な種類がある。宗教的なもの、数学や自然科学に関わるもの、そして人間や人間社会に関するものなどを挙げることができる。
新たに創造された「知」は、数字や文字によって記述される。すると、それらの「知」は規範力を持ち始める。すなわち記述された「知」は自らの正当性を主張し、他の考え方を排斥するからだ。そして、人間の社会に「権力」が生まれる。つまり、「知」が権力を生むのだ。例えば、聖書が書かれ、教会という権力が誕生する。共産主義という「知」が生まれ、共産党という権力組織が生まれる。法律学という「知」は、刑法や刑事訴訟法、そして警察法を生む。そして、警察権力が担保される。原子力発電に関する技術という「知」が確立されると、それが利権を生み、原子力ムラという権力を誕生させるのである。権力が支配する状態を「秩序」と呼んでもいい。
権力に依存する者は、そこに利益の源泉を求めるのであって、決して、それを手放そうとはしない。こうして、世の中には既得権者がはびこり、社会の変化を拒絶するのである。
しかしながら、権力がそのバックボーンとしている「知」をソクラテス風に言えば、たかだか「人間並みの知恵」に過ぎず、真理とは程遠い。バックボーンとしている「知」が不完全なのだから、権力が正しいはずがない。
そこで、権力に抵抗し、反逆を試みる個人が登場する。ここでは、このような個人を「主体」と呼ぶ。
一見、主体が社会の中でその姿を現すことは稀である。しかし、例えば、新聞の3面記事を見るがいい。そこには、様々な人間の行為が記されている。法律によって担保されているはずの人間社会において、法律が想定し得ない人間の行為が、ときには犯罪という形を取って顕現する。犯罪の多くは理不尽な動機に基づくが、中には止むに止まれぬ理由によるものもある。例えば、老々介護が招く子による親の殺害。冤罪事件もある。原発事故によって、故郷を追われた人もいれば、理不尽な国防政策によって戦争リスクの最前線に立たされる沖縄の人々もいる。組織犯罪を知り得た者による、内部告発も増えている。こうして、権力や秩序と主体との緊張関係は、日々、増しているに違いない。
身体を中心とした生活に基盤を置く素朴な人々を指して、大衆と呼ぶことができる。また、「知」の世界の住人を知識人と呼ぶこともできるだろう。大衆は、自らの理解を超えた存在である知識人を憎む。また知識人は、心のどこかで大衆を馬鹿にしているのではないか。こうして、身体と「知」の対立関係が存在する。
また、「知」が生み出す権力と主体との間にも対立関係がある。
要約してみよう。私の歴史観としては、まず、生活に基軸を置いた身体があって、そこから離脱した「知」が登場する。「知」は権力を生み、権力に対抗して主体が登場する。この4つの要素の中で、身体は「知」と対抗し、権力は主体と対立する。更に言えば、「知」を憎む身体、すなわち大衆は、権力に迎合する。これが、民主主義の正体だと思う。
<対立関係>
身体 vs. 「知」
権力 vs. 主体
<共犯関係>
権力 & 身体
これが文明の基本構造であって、人間はこの構造から逃れられずにいる。
ちなみに、フーコー三角形と呼ばれる基本概念は、権力、「知」、主体の3つである。但し、これは研究者が言っていることであって、フーコー自身が述べたことではない。私は、この3つの概念では説明し切れないと思い、そこに身体という概念を追加した。
少し生意気なことを言わせていただければ、私は、共時態で思考したレヴィ=ストロースに反対の立場であるが、通時態で思考する構造主義者なのかも知れない。