文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

童話「桃太郎」における構造

 

どうやら、私たちが生きているこの世界には、構造がある。哲学の世界においても構造主義が一時期流行ったようだが、やがてそれは衰退した。その理由は意外と単純で、構造が判明したからと言って、それではどうすればいいのか、という問いに答えを提供できなかったからだろう。この批判は、構造主義に続くポスト構造主義にも妥当する。

 

勝手なことを言わせていただければ、私は、歴史主義的構造主義者である。レヴィ=ストロースの支持者は、そんな構造主義はないと言うだろう。しかしながら、人間の世界にもそれを動かしている原理や構造は存在するのであって、それは長い歴史的な時間の中で生み出されたのだと、私は思う。そして構造は、私たちにある地図のようなものを提示してくれるのではないか。構造を解明した後で、その地図を眺めて、それではどの方向に向かうべきか、考えることができるのではないか。

 

私の考えるその地図、構造とは、次のようなものだ。

 

        権力

       |

身体 ――――|―――― 「知」

       |

        主体

 

文字を持つ以前の人間社会においては、身体を中心に置く生活領域と、そして「知」の2つしかなかったのだと思う。当時の「知」とは、例えば、我々の祖先はバナナだったとか、オオトカゲだったとか、そのようなものであったはずだ。そのような「知」は、権力を生まない。やがて、暴力が権力を生み、権力に対するアンチテーゼとして、主体が生まれたに違いない。主体は、西欧における近代において、特にその姿を鮮明にした。そのような主体は、近代的自我と呼ばれた。

 

この構造は、例えば、童話の「桃太郎」においても妥当する。

 

まず、おじいさんは芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行く。これは村人たちの生活、すなわち身体を表わしている。そこに桃太郎が登場し、彼は元気に育つ。ある日、鬼が現われ、村人たちの財産を強奪する。実際、かつては盗賊が跋扈していたのかも知れない。この盗賊が童話では鬼として描かれているのだと思う。鬼は、暴力を基盤とする権力である。そして、権力に対抗すべく桃太郎の主体が覚醒し、桃太郎は鬼ヶ島へ鬼退治に赴くことを決意する。その際、おばあさんは桃太郎に日本一のキビ団子を授ける。この童話における重要な意味が、このキビ団子に秘められている。これは桃太郎が食べるためのものではなく、道中出会った猿、キジ、イヌに与えられる。その見返りとして、動物たちは桃太郎の家来となり、共に鬼と戦う。すなわち、このキビ団子こそが「知」を表わしている。もちろん、動物たちの助けがあってこそ、桃太郎は鬼退治に成功した。

 

       鬼

       |

村人 ――――|―――― キビ団子

       |

      桃太郎

 

こうして物語はハッピーエンドを迎える訳だが、そこに教訓めいた事柄を見ることができる。まず、村人たちは誰も桃太郎について行こうとはしなかったということだ。大衆は弱い存在なのであって、権力者に勝つことはできない。この童話は、そのことを暗示しているように思う。権力に対抗できるのは大衆ではなく主体、すなわち桃太郎なのである。また、桃太郎であっても、鬼に勝つためには「知」の、すなわちキビ団子の力を借りる必要があった訳だ。

 

日本人の無意識が生み出し、語り継がれたこの童話においては、人々の現実認識と希望とが語られている。人々は、自分たちを救ってくれる英雄、すなわち桃太郎の登場を願っているに違いない。そしてこのことは、昔も今も変わらないのである。