ボールペンで書いた一見シンプルなこの図をデスクマットの下に置いて、私は毎日、それを眺めている。
権力
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身体 ――――|―――― 「知」
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主体
人間の文明を構成要素に分解すると、上の図における4つの要素に還元されるのではないか。そして、文明が大きく変化するとき、これら4つの要素の関係も、大きな変化を遂げるに違いない。(その他の要素として、記号を挙げることができる。但し、記号は全ての領域に、すなわちどこにでも存在すると、私は考えている。)
ところで、世の中には星の数ほどの学問がある。例えば、心理学だけをとっても、その数は優に40を超える。社会心理学、犯罪心理学、児童心理学、分析心理学・・・。しかしながら私は、「権力学」という学問の存在を聞いたことがない。何故だろう? アカデミズム自体が、権力に敗北しているからではないだろうか。
もちろん人間の「知」は日々、変化しているのであって、また、個人の思想、すなわち主体も新たに誕生し続けている。つまり、文明は変化しなければならない訳だが、現実は、そうなっていない。変化を拒む勢力がある。それが権力だと思う。
では、変化を拒む権力とは何か、それを研究する学問があってしかるべきではないか。仮に、権力とは他人の、若しくは人々の自由や権利を拘束する力のことだと言えないか。
童話「桃太郎」に登場する鬼は、暴力を背景とした権力を持っていた。これが、権力の起源かも知れない。例えば、江戸時代の権力者も同じだっただろう。暴力と言うよりは、もう少し体系化された武力と言った方がいいかも知れない。つまり、権力にはそのよって立つ基盤、背景というものが存在する。これが1つ目の原則である。例えば、明治憲法の第1条には、次のように書かれている。
当然、この憲法によって、天皇の権力が生まれた訳だ。しかし、これは暴力や武力を背景としておらず、これはある意味で「知」を背景としていると言えよう。このように、権力は変化する。
次に権力は、その攻撃対象を持つということが挙げられる。「桃太郎」における鬼は、不当に村人たちが保有する財物を盗んだ。すなわち村人たちの生活(身体)に対して攻撃を加えたのである。では、明治憲法の第1条は、何を攻撃対象にしたかと言えば、それは個々人の内心(主体)である。個々人は、様々な思想を持ち得るが、それを許さず、天皇こそが主権者であって、その考え方に反する思想は許さない、という意味なのだ。
権力について考える上で、もう1つ重要な要素がある。それは、権力が重層的な構造を持っているということだ。例えば家庭の中で、父親が威張っているとしよう。しかし、その父親も会社に行けば、部長に頭が上がらない。部長は社長に頭が上がらず、社長は株主に頭が上がらない。
- 権力は、何らかの背景を持っている。
- 権力は、何らかの攻撃対象を持っている。
- 権力は、重層的な構造を持っている。
以上の観点から分析をすれば、権力とは何か、それを考えることができるのではないか。